2020年4月23日(木)の手紙

2020年4月23日(木)


『私たちはあなたに感謝します。神よ 私たちは感謝します。あなたの御名は近くにあり』詩篇75篇1節


神は私たち一人ひとりのきわめて「近く」におられる。
神は、私たちには見えないが、私たちが呼吸しているこの空気よりも近くにおられる。
なぜなら、私たちが存在し生きて動いていること自体が、神の内にあるからだ。

神は私たちのごく近くにおられ、私たちの思いと願いとはすべて神の前に開かれている。
神は「人間の心を探る方」だからである。

ところが、神はそれほどまでに近くにおられるのに、私たちは神からきわめて遠く離れたところにいる。
父親の家を出て「遠い国に旅立った」放蕩息子がどれほど遠く離れたところにいたか、誰も距離を測ることはできない。

しかし、私たちはその距離をたった一言で言い表すことができる。
短くも恐ろしい言葉、『罪』である。

罪を赦し、罪を取り除くことができる唯一のお方は今、ほかのどこでもなく、神の御座に、神の右に座しておられる。
このお方のもとに、罪の赦しがある。

私の義は天にある。
私の希望、私の慰め、私の信頼は神の御座にあり、ほかのどこにもない。

道に迷った罪深い羊である私を見つけて救ってくださったお方、ご自分の死によって私を贖われれた主が、私を肩に負い、すべてを引き受けてくださっているのだ。

主はもうこの地上にはおられない。
主は「ただ一度罪に対して死なれた」ので、私はもはや死者の中に主を捜すことはない。

主は天に上られた。
喜びとともに主は故郷に戻り、友人たちを招いて、救われた羊が今や主とともに平和の国にいることを喜ぶように呼びかけておられる。

だから、天の国以外に、私にとっての場所はない。
ほかのすべての場所においては、私は罪と罪の宣告しか見ることがない。

「仲介者」がいなかったら、その血がなかったら、「大祭司」がいなかったら、私たちはいったいどこで祈り、神に近づくことができるのだろうか。

しかしイエスの血が、新しい契約の仲介者が、とりなしてくださる大祭司が、天の国そのものにおられる。
だから私もそこで祈り、礼拝しなければならない。
私には、天におられるキリストのほかに隠れ場がないのだから。

イエスのもとに来て、主にゆだねて癒やされたあなたは今や、十字架の向こう側、すなわち幕の内側にある至聖所の中にいる。
あなたは恵みをいただいた。
神はあなたのすべての罪を赦し、キリストをまとわせてくださったのだ。

神があなたを導いてくださったこの状態において、これ以後は何の変化もありえない。
この状態についてのあなたの知識や楽しみは変化し、増えるかもしれないし、あなたの信仰や奉仕が変動し、あなたの経験に浮き沈みがあるかもしれないが、あなたたちは常に神の子どもなのだ。

赦され、愛され、神のあわれみに囲まれ、父なる神がイエスに対して抱いておられるその愛に抱かれた神の子どもなのである。

アドルフ・サフィア


クリスチャンが神にもたらす罪が、どれほど重いかというなら、キリストの血よりはるかに重いなど一つもない。

ジョージ・V・ウィグラム


a:80 t:1 y:0