2020年4月21日(火)の手紙

2020年4月21日(火)


『あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります。』詩篇16篇11節


もしも私たちが、誰にも奪うことのできない喜びを求めようとするなら、誰にも妨げられないものの中にそれを見出さなければなりません。
人間の不安定さをこうむりやすい喜びの要素は、どれもまったくあてにならないからです。

唯一の永続する喜びは、永遠なる神の内に見出せるのです。

ほかのすべてのものを除外して、神の賜物も除外して、神の恵みも除外して、万が一にも変わってしまう可能性のあるものはすべて除外して、ただ神の内にのみ見出すことができるのです。

不変なのは神おひとりだけです。
常に同じで、優しく愛に満ちたすばらしい神であり、私たちは神の贈り物や神の約束を喜ぶことができてもできなくても、神を喜ぶことはできるのです。

私たちが赤ちゃんを喜ぶのは、赤ちゃんが私たちのために何かができるとか何かをしたからというのではなく、それが赤ちゃんだから喜ぶのです。
神を喜ぶことは、さらに限りなく深く広いものを意味しています。

神の御前には「満ち足りた喜びが」あり、それ以外に喜びが満ちているところはどこにもありません。

お母さんがただそこにいるだけで子どもは嬉しいのと同じように、神が私たちと一緒にいてくださるというその単純な事実が、私たちの喜びとなるのです。

母親が一つも約束をしてくれなくても、その計画や目的を何も説明してくれなくても、それでも母親がいれば子どもにとってはそれで十分なのです。
子どもが喜んでいるのは母親そのもので、母親の約束ではありません。

その子どもにとって、すべての変わるもの、変わる可能性のあるものの背後には、母親の存在という唯一の変わらない喜びがあるのです。
母親が生きているかぎりは、子どもは慈しんでもらえる。

子どもはこのことを知識としては理解していなくても、本能的に知って喜んでいるのです。
そして同じく神の子どもたちにとっても、すべての変わるもの、変わる可能性のあるものの背後には、神がおられるというただ一つの変わらぬ喜びがあるのです。

神がおられるかぎり、神の子どもたちは慈しんでもらえる。
そのことを知って、本能的に、そして人間の両親をもつ子どもよりもはるかに理知的に喜ぶべきなのです。

神が神であられることのほかに、神におできになることがあるでしょうか。
神には、顧みない、関心がない、忘れる、無視することは決してありえません。

神はすべてをご存じです。
すべてを気にかけておられます。
すべてを統御することがおできになります。
そして何よりも、私たちを愛しておられるのです!

ハンナ・ホワイトール・スミス


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