2020年4月16日(木)の手紙

2020年4月16日(木)


『勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。』ヨハネの黙示録2章17節


イエスは「わたしがいのちのパンです」と言われた。
また、こうも言われた「わたしは天から下って来たパンです」。

世界はいまだに傍観し、キリストと神のことばについてこう言っている。
「それはいったい何だ」。

真のクリスチャンとは、そのことばを謎めいた意味で用いることができ、神のことばについて「それは神からの割り当てです」と言い、キリストご自身について「主こそ、私への割り当てです」と言える人のことである。

この巡礼者の軍にとって、マナはどんな種類の割り当てだったのだろうか。
それは「十分な割り当てだった。
全員に十分行き渡り、不足することはまったくなかった。

適切な割り当てだった。
老いも若きも、弱い者も強い者も、すべての人の口に合った。

イスラエルの民はこう言っている。
「その味はすべての人を喜ばせた」。

満足を与える割り当てだった。
空腹になる者は一人もいなかった。
「若い獅子も乏しくなり飢える。
しかし 主を求める者は 良いものに何一つ欠けることがない」。

強化する割り当てだつた。
彼らを強い人問にさせた。
彼らは砂漠を旅し、働き、戦うことができた。

体力を維持する割り当てだつた。
これを食べて、彼らは四十年間生きながらえた。
非常に栄養があつたにちがいない。

確実な割り当てだった。
欠乏することは一度もなかつた。

これはすべて私たちの主イエス・キリストに当てはまらないだろうか。
主はあらゆる階級、あらゆる国籍、あらゆる年代、あらゆる場所のあらゆる人々に適合しておられる。
主を信頼する者を確実に满足させてくださるのだ。

「私が望むものはすべてイエスの内にある。
主は私を満ち足らせ、喜びを与えてくださる。
主なしには、人生は無価値となる。私はあらゆるものをイエスの内に見出す」。

主はまた、信じ従う者の生活と奉仕をも強めてくださる。
私たちの人生の旅路をずっと支えてくださり、決して見棄てることはなさらない。

ヨシュアはマナの供給にイエスと重なりあう部分があつたことを伝えている。
「マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ」。

キリストはただ私たちの人生を支えるために与えられたのではなく、私たちがちゃんと天の国に行き着いて「隠れたマナ」を満喫するようになるまで導いてくださるのである。

C・W・スレミング


イスラエル人は「自分の食べる分に応じて」、マナを集めるように命じられた。
つまり、食欲がマナを集める量の基準となったのである。

このことは驚くほどクリスチャンにも当てはまる!

私たちは自分が欲するだけキリストを得ることができる。
それより多くもなく、少なくもなく。

私たちの欲求が大きくても、大きく口を間ければ、主は満たしてくださる。
これとは反对に、私たちが自分の必要を微かにしか意識していなかったら、キリストはほんのわずかしか与えられないだろう。

エドワード・デネット


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