2020年4月14日(火)の手紙

2020年4月14日(火)


『どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。』エペソ人への手紙3章20節~21節


神の御霊によるキリストの復活のいのちは、「私たちのうちに働く御力」である。
その力が日々の生活に入ってくるのを妨げられると、私たちは行き詰る。
神の教会は行き詰ってしまうのだ。

地上のすべての信徒の力をすべて合わせても、教会を進展させることはできない。
私たちはあらゆる種類の急場の手段・・・仕事の方式やその他もろもろに頼るかもしれないが、亀の歩みのような遅々とした物事の進展は、それがまったく無益であることを示している。

しかし、神の御霊をエンジニアにたとえてみれば、御霊がレバー・・・キリストの十字架を作動させれば、スロットルが解除されるのだ。

そのスロットルとは何か。
それはすべての形の自己である。
よこしまな自己だけでなく、信仰心の厚い自己も同様なのだ。

十字架が私に死の宣告をもたらし、聖なる神の御霊がそれを適用するとき、御霊ご自身のエネルギーと力がすべて、私たちの日々の生活に伝えられる。
そして私たちはあたかも風に乗って飛ぶような速さで進む。

「鷲のように、翼を広げて上ることができる。
走っても力衰えず、歩いても疲れない」。

何か新たな力を得られたのだろうか。
いや、そうではなく、「私たちのうちに働く御力」がそのように働くことを許したからだ。

もちろん、あなたはこの例を細かい点まで適用することができる。
神の御霊はあなたの意識に何か特定の障害や我意や不従順や悪しき交際や罪を置くことがあるかもしれない。
何があっても御霊の言うことに従うことだ。

結局のところ、十字架はレバーであり、自己はすべて、神のすべての子どもたちの内に住む神のエネルギーの邪魔になる障害物なのである。
キリストの教会において、発揮されていない力のことを思うと、嘆きたくはならないだろうか。

もしも私たちに力がまったくないとしたら、もしも天から力を下したまえと求めなければならないとしたら、悲しいことである。

しかし、神の御霊・・・全能の力が内住しておられるのに、それにもかかわらずエンジンを空転させ、無力であるなどということは!

ああ、愛する兄弟たちよ!
今こそ目覚め、鋭い刃物となろうではないか。
キリストの苦しみを共にすることを知ろうではないか。

こうして私たちは同様にキリストの復活の力を知ることができるだろう。

どうか、私たちの神が私たちを目覚めさせてくださるように。
責任は私たちにあるからだ。

私たちは、自分自身のたましいのためにこれら神聖な事実に入らなければならない。
まもなく勝利と歓喜の叫びが主の軍全体にくまなく響き渡ることだろう。

サミュエル・リダウト


a:78 t:1 y:0