2020年4月11日(土)の手紙

2020年4月11日(土)


『イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」』ヨハネの福音書13章7節


私たちが中国で宣教活動を始めた開拓時代の頃のことです。

中国湖南省北部の常徳教会の礎を築いた初期には、子どものように純な中国人クリスチャンの信仰の結果を見て、自分自身の弱い信仰にとってよい戒めとなることがしばしばありました。

祈りに対する答えの中には驚くべき性質のものもあって、母国に戻って報告したときには、牧師の先生方ですら本当の話なのかと疑いを示したほどです。

けれども 神よ、賛美します!
それが真実であることは私が知っています。
その確かな例を二つ、これからお話ししましょう。

リ・ミンは心優しい熱心な福音伝道者で、常徳から数キロ離れたところの土地を所有していました。
ある機会にその場所を訪れたとき、彼は隣人たちが総出で小さな旗のついた棒を自分たちの畑のまわりにせっせと立てているのを見かけました。

彼らはこうすればダイミョウバッタに穀物を食べ荒らされずにすむと信じていたのです。

誰もがリ・ミンにも同じことをしてバッタの神を礼拝するように強く勧めました。
さもないと、彼の穀物はめちゃめちゃにされてしまうから、と。

リ・ミンは答えました。
「私はただ一人の真の神を信じています。
ですから、私の穀物を守ってくださるように神にお願いしましょう。
そうすれば皆さんも、そのお方が唯一の神であることがわかるでしょうから」

バッタの大群はやってきて、リ・ミンの畑の回りのすべての穀物を食べ尽したけれど、彼の穀物には危害を加えませんでした。

私の夫はこの話を聞くと、確証を得るためにリ・ミンの畑を訪れました。
そして異教徒であるリ・ミンの隣人たちにこの件について知っていることを訊いてみました。
すると彼らは口をそろえて、バッタの大群が来たとき、自分の穀物は食われたが、リ・ミンのは食われなかった、と証言したのです。

主イエスはかつて、不信仰と偽善に対する闘いのあとでこうおっしゃいました。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。
あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」。

二番めは、私たちの幼い娘グレーシーにまつわるお話です。
グレーシーは、マラリアの感染地域に蔓延している恐ろしい不治の病、脾臓肥大に冒されていて、医師たちから回復の望みがないと宣告を受けていました。

ある日のこと、ひとりのクリスチャンの中国人女性がグレーシーと同じ年くらいの男の子を連れてやってきました。
その子はグレーシーと同じ病気にかかっていて、病状もたいそう悪かったのです。

かわいそうに、その子の母親は悲しみのどん底にありました。
やはり主治医から絶望の宣告を受けていたからです。

母親は、もしも私たちが医師に懇願すれば娘を助けてくれるだろう、と考えたのでした。

黙って聞いていた私の夫は、最後に私たちの幼いグレーシーを指さしてこう言いました。
「医者がうちの娘を助けられないのなら、間違いなくあなたのお子さんも助けることはできないでしょう。
あなたの唯一の希望、そして私たち夫婦の希望は、主ご自身にあるのです」。

その母親は貧しく働き者で、無学だけれど、子どものような純粋な信仰をもっていました。
それから数週間たって、彼女は再びやってきて、こんな話をしてくれたのです。

「先生の旦那さんが、あたしの唯一の希望は主にあるんだって言ったから、あたしは旦那さんの言うことを信じたんです。
家に帰って主人に声をかけて、二人でうちの子を主の手におゆだねしたんですよ。
うちの子は絶対によくなるって確信があったから、世話をするのも元気な子と同じに扱いました。

それで二週間くらいしたら、息子は完全によくなったように見えたから、またお医者さんのところに連れていったんです。
そしたらお医者さんが言うには、息子はどっこも悪いところは見つからないって」

その中国人の子どもは、今は成長して健康な大人になりました。
そして、 私たちの子どもは亡くなりました。

けれども私たちも、娘のために祈ったのです。
おそらく子どものためにこれほど祈った者はほとんどいないだろうというほどに。

なのにどうして、娘は助からなかったのでしょう。
私にはわかりません。

でも私にわかっているのは、私の人生において当時、ほかの人に対して苦々しい思いを抱くという罪があったことです。
そして理不尽なことを赦そうという気になれなかったこともありました。

このことはどんな祈りを妨げるのにも十分でした。
何年ものあいだ祈りを妨げ、やっとそれが正されたのです。

では、祈りが応えられなかったこの話は、祈りに応えようとなさる神のみこころと御力とに対する私の信仰をゆるがしたでしょうか。

いいえ、とんでもない!

私の子どもがお願いに来たときに、その子の最善を考えて私が拒否したからといって、その子が、もう二度と私に願わないと決心したりするでしょうか。
自分の子どもとの関係において、あるときには願いを認めなかったことでも、別のときには聞いてあげることが最善だとみなすことがあるのではないでしょうか。

「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」。
そして神の愛と憐れみを感じた貴重な経験の一つは、娘グレーシーの死に関わるものでした。

私たちは、最期にはおそらく痙攣が起こるだろうと警告を受けていました。
私たちは最愛の子ども二人を、そうやって亡くしていたのです。
それがまた起こる可能性があり、しかもいつ起きるかわからないという恐怖を完全に理解できるのは、そうした経験を通ってきた母親だけでしょう。

ある晩、私がP嬢と一緒にそばで見守っていると、突然、グレーシーがはっきりした口調でこう言ったのです。
「パパを呼んで。パパに会いたいの」。

そのときは夫が休息をとる時間だったので、夫を起こすのはためらいがありました。
口実をもうけて待たせようとしましたが、グレーシーはまた、パパに会いたい、と繰り返します。
私は夫を呼んで、私が戻るまで娘を抱いて部屋の中を歩いてくれるように頼みました。

私は隣の部屋に入ると身を引きちぎられる思いで、グレーシーが苦しまないように、と主に泣いて訴えました。
けれど、もしも娘を取り去ることがみこころなのでしたら、どうか苦しまなくてすむようにしてください、と懇願したのです。

祈るにつれて、驚くほどの平安が私を包みこみ、主の約束がまるで言葉で語られるようにはっきりと与えられました。
「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」。

立ち上がった私を、P嬢がドアのところで迎えて言いました。
「グレーシーはイエスさまと、ともにいます」。

私がひざまずいて祈っていたとき、私たちの愛し子は父親の腕の中でしばらく安らいだあと、とびきりの愛らしい笑みを浮かべて、父親の顔を見つめました。
それから静かに目を閉じて、 息を引き取ったのでした。

もはや苦しみも痛みもなく、「眠りについた」のです。

ロザリンド・ゴーフォース


あなたにとって彼らは失われたのではない。
彼らは天のキリストの宝庫に置かれているのだ。
復活のとき、あなたは彼らに会える。

彼らはあなたより先に送られたが、遠くへ去らされたのではない。
彼らは天に在る。

あなたの主はあなたを愛し、惜しみなく与えてくださる方なので、取っては与え、借りては返されるのだ。

サミュエル・ラザフォード


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