2020年4月10日(金)の手紙

2020年4月10日(金)


『そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「主の言われたことはすべて行います。聞き従います。」出エジプト記24章7節


欲望は、勝手気ままにふるまい、すべての抑制をはねつけて自分の横柄な意思を主張する、生まれながらの性向である。
私たちがまだ生来の性質の闇の中にいて、神の恵みに照らされていないとき、これらの欲望が私たちを作り上げている。

欲望の手によって私たちは、「陶器師が粘土で制作」するように、「造り、整え」られるのだ。

忌まわしい罪や悲惨な罪の結末や、知らぬまにじわじわと成長する罪に無知なままでいると、罪に屈服することになり、ついには罪は私たちの圧制者となり、破滅の因となってしまう。

ああ、それに気づいたときの、なんという恐ろしさ。
私たちは、自分の下にある地獄までまっすぐに降りているこの恐るべき絶壁の深い奥底に目を向けなければならないのだ。

私たちがもはや以前の欲望に従って自分自身を作り上げなくなり、神のみこころに従うようになったとき、それが従順、すなわち「聞き従うこと」である。

この真理の重要さはどんなに大げさに言っても言いすぎることはない。
従順は聖別ではない。
聖別は、神によるたましいの所有である。

だが聖別は、常に従順をもたらす。
そして私たちはそうやって従うたびに、自分の生まれながらの性質の中に、神のご性質を少しずつ受け取っていくのである。

「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従…うなら…あなたがたは、わたしにとって…聖なる国民となる」。

それだから、行うに正しいことは何でも行おう。
自分に始まり、自分で終わることはすべて捨て去る。
祈って熱く願うだけで満足してしまわないで、行うことである。

こうして、あなたがたの容貌といのちが、あなたがたの霊の御父と「同じかたちに姿を変えられていき」、あなたは聖められる。

どんな些細なことでもすべてのことにおいて、イエスのみこころと規則に従順であることが、いのちと喜びと力に欠かせない条件だということを理解していると思われるクリスチャンはきわめて少数だ。

従順なたましいは聖められたたましいであり、神の臨在に満たされて、光と愛とに輝いている。

親愛なる兄弟よ、この瞬間からあなたの光を限界まで用いて生きる決意をしようではないか。
このみことばをあなたのモットーとして。
「主の言われたことはすべて行います、聞き従います」

F・B・マイアー


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