2020年3月6日(金)の手紙

2020年3月6日(金)


『だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。』ヤコブの手紙1章13節~15節


誘惑は、私たちが触れてほしいところに触れる。
その源は私たち自身の刺激された欲望だからだ。
それだから誘惑は、私たちの聖化を確立する。
つまり、私たちをキリストへと押しやるのである。

それは私たちを、意識してキリストに留まるように訓練する。
私たちの内に生きておられるキリストのほかに希望はなく、自分は無力であることを試行錯誤によってわからせるのだ。

私たちは、自分のもっとも攻撃されやすい脆弱なところを誘惑されつづける。
それは私たちにとっての神の正しい道なのだ。

それがいつまで続くかというと、私たちが、本能的な欲望は変わらないこと、人間的な反応は変わらないこと、誘惑は変わらないこと、そして内におられる絶対的他者であるお方による以外には、一年後であろうと40年後であろうと助け出される希望はまったくない、ということがやっとわかりはじめるまでなのだ。

それは否定的なものを否定する肯定的なお方であり、闇を呑み込む光なるお方である。
その事実が、救いの唯一の道・・・日々の信仰の歩みにおいて、私たちを安定させてくれるのだ。

ノーマン・グラップ


罪人は救い主を信じゆだねるまで救われず、信徒はさらに助け主である聖霊を信じゆだねるまで聖化されない。
神は、ひとり子の十字架を通してその両方を可能にされた。

ルイス・スペリー・チェイファー


もしもそのたましいが主イエスを明確に優先しないなら、それだけで、敵が勝利をおさめるには十分だ!

F・W・グランド


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