2020年3月29日(日)の手紙

2020年3月29日(日)


『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。』ガラテヤ人への手紙5章22節~23節


キリストのような人生・・・これは、私たちすべてが望んでいる人生ではないだろうか。
ところがこの人生は、私たちにとって自然なものではなく、私たちが自分でどんなに努力しても得られないものだ。

私たちにとって自然な人生は、冒頭の聖句の前の句に述べられている。
「肉のわざは明らかです。
すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類いのものです」。

こうした生まれながらの罪の性質のしわざがすべて、それぞれの人に現れているわけではない。
この人に現れているものもあれば、あの人に現れているものもある。

だが、そこには一つの共通の源がある。
生来の罪の性質がそれで、もしも罪の性質によって生きるなら、私たちが送る人生はそのような人生になる。
それは私たちにとっての生まれながらの人生である。

しかし、ある人の内に住む聖霊がその人を監督しておられるとき、私たちが罪の性質が完全な悪であることを理解して、その力によって何かを得ようという望みを絶望の内に棄てるとき ・・・言い換えれば、私たちが自分自身の限界に達して、なるべき自分に変える作業をすべて内住する聖霊に託すとき、そのとき初めて、すべての聖霊の実が私たちの人生の実となるのである。

あなたは、これらの恵みが自分の性格と人生の内にあったらいいと思うだろうか。
心からそうなることを望んでいるだろうか。

それなら自己を完全に棄て、聖化を求める奮闘もすべて放棄し、自分自身の力で道徳的にすぐれた何かを得ることができるという考えもいっさい捨て去って、あなたが神の子どもであるなら、もうすでにあなたの内に住んでおられる聖霊に完全に支配していただき、日々の生活の中に、ご自身のすばらしい実を結んでいただこう。

R・A・トーレー


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