2020年3月25日(水)の手紙

2020年3月25日(水)


『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」ローマ人への手紙10章9節~11節


「イエスを主と告白」する者は、この世界で人々を支配している影響力・・・実際には人間のたましいを支配する敵の力から救われ、その人が告白するお方の守りの力のもとに置かれる。
それゆえ、「口で・・・告白」することで救いに導かれるのである。

クリスチャンがこの世の影響力をこうむっていることに気づいたら、「口」のことを気にしてみるといいだろう。
神がある『ことば』を口に入れてくださったこと、それはイエスを「主と告白」する言葉だったことを思い出すのだ。

その『ことば』を自分の口から出すことを認めると、それがこの世界からの非難と拒絶を招くこと、けれどもそのことばが神の救いを伝えることに気づくだろ。

イエスを主と告白するとき、それはイエスが私たちにとって主となられたことを意味する。
その告白の背後には、それを支えるものがある。

人は時々、自分の信仰にとってまだ真実となっていないものを告白するように強いられることがあるが、これはきわめて有害なことであり、誤った立場に置かれやすくなるだけだ。

もしもイエスが私にとって主でなかったら、いったいどうやってイエスが主であることを、大胆にはっきりと告白することができるだろうか。

イエスが主であるという幸いな現実を、まず心によって知る。
次に、この世界で公然と明確に告白し、それによって救いが見出される。

イエスが主であるという霊的な告白には、計り知れない力がある。
それは告白する相手の心をも捕らえる。
なぜならその人は、イエスが自分にとっても主であるべきだということを、たましいの奥底で知っているからだ。

イエスを主と告白する者には、神の救いの力が与えられているのである。

C・A・コーツ


証しには二つの経路しかない。
唇と人生である。

唇は、人生において最初に生み出されたものだけを表現しなければならない。
私たちがもっぱら求めるべきものは強い現実性である。
それは私たちがもっていると告白する真理によって御され、支配されていなければならない。

ゆえに、これまで一度も味わったり消化したことがなく、自分のたましいにとって真実だとわかったことのない語句や文を用いることは禁止されるべきなのだ。

エドワード・デネット


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