2020年3月24日(火)の手紙

2020年3月24日(火)


『あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。』ルカの福音書14章28節


どうして私たちは、神からの力がこんなにも不足しているのだろうか。
それは要するに、その始まり方が好きになれないからだ。
まず自分自身の生活を憎むところから始まるので、これは実に嫌なスタートである。

しかし、それなしには「塔を建てる」ことはできない。
人間的な素材は拒絶しなければならない。
さもないと、真の構造に築き上げることはできないからだ。

力のおかげではエリシヤは「自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂く」ことができた。

力は自己否認から始まる。
このことで、なぜこんなにも力が乏しいかの説明がつく。
人は流刑者のようにくよくよと思い悩むことがしばしばあるが、そこから立ち上がり、抜け出さなければならない。

「死んだ者」を葬らなければならないのだ。
そこを乗り越えたとき、すばらしい日が訪れる。
そしてその人は、他者に用いられる人となるのである。

J・B・ストーニー


忘れてはならないのは、私たちの霊的な状態を抜きにしては、力は働かないということだ。
私たちの「からだは……うちにおられる、神から受けた聖霊の宮」である。

もしも私たちが注意して見守っていなかったら、自分の歓びをキリストよりもこの世に求めていたら、私たちは、主が御力の器として私たちを用いてくださる、と一瞬たりとも思ってはいけない。

だが一方、もしも一途な心でキリストだけに目を向けるなら、もはや「神の聖霊を悲しませる」ことはない。
私たちがどんな状況に置かれても、聖霊が必ず支えてくださり、私たちが経験するであろう葛藤そのものから敢然と引き出してくださるのである。

私たちは、神の力をこの世界に啓示する水路の何たるかをいくらかでも実際に知るまでは、休まずにいようではないか。

エドワード・デネット


あなたはなぜ力が欲しいのか。

めったにない恍惚感を味わいたいから?
サマリアの町の「シモン」のような隠された利己的な目的のために?
人々を動かしたくて?

これらの動機はすべて利己的なものだ。
始める前にやめたほうがいい。

しかし、もしもあなたの願いが徹頭徹尾イエスの栄光を讃えることで、主が選ばれることは何であろうとすべて、あなたの内にあなたとともに行っていただきたいというのであれば、主は、あなたのいのちの水路を新たな力の流れで満ちあふれさせてくださるだろう。

S・D・ゴードン


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