2020年3月18日(水)の手紙

2020年3月18日(水)


『大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。』テモテへの手紙第二2章20節~21節


キリストのいのちが私たちの内に入って、私たちの命と置き換えられる、というとき、私たちはどういう意味で言っているのだろう。

私たちの個性に取って代わるために、主イエスのこのいのちが入ってきたという意味ではない。
私たちの罪に堕ちた人生について語るとき、私は人間の個性がそうしたものだというつもりはない。
私たちの個性に浸みこむ毒、私たちの人間性を貶め汚し、歪めてきた罪の毒について言っているのである。

主イエスのこの新しいいのちは、私たちの個性と代わるために・・・神が創造された私たちの機能と代わるために、入ってこられるのではない。
私たちの個性に作用し、私たちの機能を動かしている罪深い命と取って代わるために来られるのである。

器は同じだが中身は違う。
同じ器、同じ人間、同じ機能だが、中身が違うのだ。
もはや、この罪深い要素ではなく、主イエスの極めて聖なるご性質そのものが満たし、浸透し、行き渡るのである。

ノーマン・ダウティー


あなたは鍛冶屋が仕事をしているのを見たことがあるだろうか。

火の中に鉄を入れるとき、炉の中に長く置かれれば置かれるほど、熱く赤くなり、ついにはまるで炎のように見えるのを・・・。

鉄は炎の中にあり、炎は鉄の中にあるが、鉄が炎になったわけでも、炎が鉄になったわけでもない。
鉄が輝きはじめると、鍛冶屋はそれを自分の望むどんな形にでも曲げることができる。
だが依然として、鉄は鉄なのだ。

私たちはキリストに浸透されることを受け入れても、ずっと自分の個性を保つことを受け入れても、ずっと自分の個性を保つことができるのである。

サドゥー・スンダル・シン


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