2020年3月17日(火)の手紙

2020年3月17日(火)


『二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。』マタイの福音書18章20節


教会はキリストの「栄光」であり、王冠であり、喜びであり、豊かさである。
キリストは、わけてもその上に君臨する主であられる。

キリストはご自分の家に住むのと同じように、教会の内に住むことを喜ばれる。
そしてこの霊の家に築き上げられる生ける石の誰であっても、その名において集まっているときには、その中にキリストが特別にいてくださるのだ。

ところが、私たちが個人で自分勝手に歩んでキリストを悲しませ、それによって自分のたましいの内に主の臨在を感じられなくなると、みことばを無視し、キリストの御霊を拠りどころとしなくなることで、集団としても主を非常に侮辱することにもなりかねない。

その結果、私たちの教会の集会は力を失い、死んだように停滞してしまう。
生けるキリストの臨在が体験されなくなり、主との親交もまったく失われてしまうかもしれない。

私たちは次のことを確信してもいいだろう。
すなわち、もし私たちが集まるときに、主がともにおられることを意識したいと強く望むなら、それぞれ自分自身の心と家の中で主とのつながりを深めていかなければならない、ということだ。

そうすれば、信徒たちとの幸いな集いを確実にしてくれる最善の方法は、おのおのが主ご自身との幸いな時間をもつことであることがわかるだろう。

それだから、自分の奉仕に熱が入らず、気力がわかないことに気づいたときは、自分自身にこう問いかけてみよう。
私の心はこれまでに、主のもとからさまよいだしたことがなかったか、と。

もしも私たちの大多数が冷えきった世俗的な心で集うなら、私たちの集会はおもだった教会員の死んだような活気のなさを共有することになるだろう。

主の小さき者たちのためのパン層


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