2020年3月15日(日)の手紙

2020年3月15日(日)


『彼女は、「栄光がイスラエルから去った」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。』サムエル記第一4章21節


今日のクリスチャンの働き人は、自分たちの周囲で知らず知らずのうちに発達した組織化された奉仕の中に巻き込まれているのに気づいたとき、どんなふうに行動したらいいか戸惑っている。

その「組織」を支える力が、もはや自分の中にはないことがわかったのに、どうしてそうなったのか、そのわけもわからないのだ。

そのような信徒は訊ねてみるがいい。
この特定の奉仕のために必要だった組織は、すでにその目的を達し終えたのではないだろうか。
そうした組織が引き続き存在していること自体が、神が手を引こうとされている奉仕には、もはや神の霊は力を注いでくださらないのだということを示しているのではないだろうか、と。

霊的な働き人・・・どんな奉仕を行うにも聖霊にゆだねている者は、すでにその目的を達成している「組織」の中には、聖霊の祝福を見出すことができない。

もし神の御霊がもはや必要とせず、用いることもやめた外側を組織化した働きに、働き人がしがみついているとしたら、その人は聖霊の力ではなく、自分自身の力に頼らざるをえなくなることに気づくだろう。

仮にそうした人が、自分が組織に巻き込まれていることに気がついたら、別の方向に流れている聖霊の流れの中に活路を見出すことに大きな葛藤を覚えるかもしれない。

それゆえに働き人たちは、聖霊による聖別が自分たちの奉仕とともにあるのはどこなのかを真剣に見守っていなければならない。
そうすれば聖霊とだけ一緒に働けるし、聖霊の力の流れがどこへ向かおうとも、聖霊の導きがあることを知るからだ。

働き人が認識していなければならないのは次のことだ。
どんなによい働きの組織でも霊的な生活を表現する手段とならずに霊的な生活を抑圧する、あるいは邪魔をして、働き人が個人的な生活や勝利において聖霊の支配やあふれるほどの満たしを失うとき、その働きの「組織」は妨げとなるので、それは放棄するか、聖霊による日々の生活に従属するという正しい位置まで引き下げなければならない。

ことによると、働き人は組織との関係を調整する必要があるかもしれない。

教会の歴史には、「団体」のもつれに巻き込まれて自分自身の霊的な生活や奉仕を損なわれた人々の例があふれている。
たとえば、ある働き人が聖霊のバプテスマを受けたとする。
神は人々に祝福を注がれる。
集会は人で混雑する。
神は強く働かれる。
そして「組織」が「祝福の結果を維持する」ために必要となり、ほどなくして聖霊に満たされた働き人は、あれやこれやの仕事を続けることを強いられるようになる。
そうすると誓ったからだ。

彼は状況に縛られるようになり、もはや自由に神の御霊の導きに従うことはできない。

そうして神のいのちの潮がゆっくりと退いていき、やがて働き人は、自分の手の中にある外面的な目に見える形の働きを満足しながら・・・|場合によっては満足しないままに続けるようになる。

これは聖霊のバプテスマを受けた何千という神のしもべの話である。
彼らは聖霊によって働きを始めたものの、どうやって最後まで聖霊によってその働きを続けたらいいかを理解できなかったのだ。

また、どんな団体の働きにおいても、それを担当する働き人には、彼らの助け手たちの霊的な生活がその「働き」の犠牲になっていないかを見守る義務がある。
すなわち、主の奉仕の中でも団体を維持するための働きにおいて働きすぎることで、彼らの霊的な生活に成長や表現の機会がまったくなくなっていないかどうかに目をやっていなければならない。

あるいは、働き人の長がほかの働き手につらく単調な「骨折り仕事」をさせ、彼らの犠牲の上に自分の霊的な生活を育んだりしてはならないし、労働者の雇い主が労働者を過度に働かせ、彼らの犠牲によって自分たちが豊かになってはならない。

裏方の仕事を行っている者も、表で仕事をしている者と同じ霊的な成長の機会をもつべきなのだ。

すべての霊的な働き人にとっての究極の必要は、聖霊の「生ける水の川」を見分け、その流れに従うことである。
神がもはや円滑に進めてくださらない「組織」、あるいは聖霊の「流れから逸れてしまった」組織は、霊的な働き人に停滞感を抱かせる。

しかし、組織の外では流れを見つけることができるかもしれない。
中には鋭い霊的洞察力を通して、ほかの者よりも早くこのことに気づく者もいる。

今日の究極の疑問は、聖霊の「川」はどこにあり、どこへ流れ出るかということだ。
聖霊は携挙に向かって動いておられる。
この世を離れて天に上る備えをなさっているのだ。

聖霊とともに行く者は、天へ向かう召命にのみ霊的な熱情を見出す。

働き人は、働きを続けられないように敵が邪魔することと、自分たちが特定の悪しき方向に進んでいかないように神が阻止してくださることとの区別ができないことがしばしばある。

もし彼らが、神の御霊の「止まれ」という言葉をサタンの反対だと思って、「サタンの妨害に抗して前へ進む」という間違った解釈と努力をするとき、彼らは聖霊に従って働くことから降りて、自分自身の精神的・肉体的な力に頼り、そうすることで、ともに働いてくださる神の御霊の流れ、すなわち油注ぎを失ってしまうのだ。

そして彼らは神のみこころに背いて進み、誤った闘いと決して勝利することのない争いに入っていく。
霊的な障害に遭遇した働き人は、それが神によるものなのか、敵によるものなのかを見極める必要があり、自分自身の霊に対してとる態度の結果がどうであるかを注視するべきだ。

たとえば、サタンの妨害に直面したとき、祈りと奉仕によって神と前へ進むことは、霊の解放をもたらす。
ところが一方、神なしに進むことは 霊を締め付けることになり、霊は重く、生気のない感じになり、霊の弾力と自由が失われてしまうのだ。

主の訪れを待ち望むすべての働き人は、自分自身の働きを終わらせ、携挙に備えて神の御霊が彼らのために作り出すことのできる熊度をことごとく取り入れられるように熱心に神に求めるべきだ。

彼らは次にあげる働きに対抗して祈るべきなのだ。
1)すべての偽の働き・・・神が、彼らがするように与えられたのではないもの、
2)ずっと昔に放置しておくべきだったすべての働き、
3)聖霊ではなく罪深い本性によるすべての働き、
4)聖霊を抑圧する、あるいは働き人を聖霊から引き離すすべての働き、
5)すべての無駄な働きと、よい働きかもしれないが、働き人をそれよりも優れた奉仕から妨げているもの、である。

働き人は、神から与えられたものではないすべての働きから免れるように祈ることによってのみ、何が自分たちの働きであるかを知って、それを成し遂げることができる。
そうすることで、主が来られるときには、奉仕を完全に成し遂げておくことができるのである。

エバン・ロバーツ


もし神が私の奉仕を認めてくださっているなら、私は自分の働きを終えるまで死なないだろう。

デービッド・リビングストン


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