2020年3月11日(水)の手紙

2020年3月11日(水)


『したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。』ヘブル人への手紙4章9節~10節


この「自分のわざを休」むことを、多くのクリスチャンは理解できていない。
彼らはそのことを、非活動的で利己的な楽しみであり、人生の義務を怠ることにつながる静思の状態であり、聖書が呼びかけている用心深さや戦闘心を弱めるものだと考えている。

しかし、これは神が招いておられる安息を完全に誤解している。
全能であられる神は、力の唯一の源であられる。
自然界において、神はすべてを働かせられる。
恵みによって、神は人間が同意し認めさえすれば、同じようにすべてを働かせようと待っておられる。

実に、神によって休むことは自分自身を最高の活動にゆだねることなのだ。
私たちがわざを行うのは、神が私たちの「うちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる」からである。

パウロも自分のことを「私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」と言っているが、その文字どおりの意味は「私の内でめいっぱいエネルギーを与えてくださるお方のエネルギーによって奮闘している」ことである。

神の安息に入ることは自己努力をやめることであり、自分自身を神のみわざへの信頼に完全に明け渡すことだ。

このみことばを正しく理解することが何よりも必要なクリスチャンは、どれほど多いことか。
彼らの人生は、真剣な努力とたゆみない奮闘の人生である。

彼らは神のみこころを行いたい、神に栄光を帰するために生きたい、と願っている。
繰り返される失敗と苦い失望を経験することがあまりにも多くて、その結果、自分から絶望に陥ることがしばしばある。

その逆には決してならない。
彼らの人生はまさに荒野の人生である。
神の安息に入っていないのだ。

願わくは、神が彼らの目を開いて、私たちのヨシュアとして、彼らに主イエスを示してくださるように。
主は神のみもとに行かれて大祭司として御座に着き、生きて私たちと一つになることで、私たちをその安息と愛の場所に導いてくださる。

そして私たちの内におられる主の御霊によって、その天の国の人生を現実のものとし、経験させてくださるのだ。

アンドリュー・マーレー


探し求める信仰はもっているが、休ませる信仰はもちあわせていない人が実に多い。
主イエスはここにおられる。
主によって休み、重荷を手放そう。

「主よ、私は今、あなたに信頼します。
今、あなたの内に住まいます。
主よ、私の家庭の問題や、仕事の重圧、人生のあらゆる領域における個人的な困難について考えるとき、そのすべてをあなたのもとに携えてきて、おゆだねします」。

主があなたを完全なる平安の内にずっと守ってくださっていることを信じよう。
この信仰による安息がすべての活動の中心であることを、私は確信している。

エバン・ホプキンズ


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