2020年2月29日(土)の手紙

2020年2月29日(土)


『さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなきい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」ルカの福音書17章11節~19節


出エジプト記12章には、イスラエルの民は、家の外の門柱に塗られた子羊の血によって剣のさばきから守られている間、家の中では、焼いた子羊の肉を満喫していたことが記されている。

過越の子羊によって彼らが受けた二重の恵みの豊かさを、誰が推し量ることができるだろうか。
その血は彼らの「初子」を剣の一撃からかばい、その柔らかな肉は贖われた人々への豊かな食物となった。

その血によって、その肉を食べることによって救われたことを喜ぶと同時に、彼らは隷属と苦難の土地から歩み出る力を受けたのである。

親愛なるクリスチャンの友よ、過越の血によって、私たちは自分たちの罪から、永遠のさばきから救われ、尽きせぬ栄光を受けることになった。

ああ、主の比類なき御名が永遠にあがめられんことを!

私たちの救いは主のみわざであり、このわざを成し遂げられた主を日々の糧とすることは、私たちにとって聖なる貴重な特権だからだ。
イスラエルの民は死んだ子羊を食べたが、私たちがいただくのは、「神の右の座」におられる生けるキリストなのである。

実に悲しむべきことは、罪の赦しとさばきの免除、栄光の約束、主の愛の手から与えられる数えきれない恵みを受けていながら、主に献身することも専心することもなく、主の栄光に属することに関心を示さないたましいの状態である。

私たちが見るべきなのは、主が、ご自分の「きよめた」九人の「ツァラアトに冒された人」が感謝に欠けていたことを痛感されながらも、十人目の感謝を、たとえ、それが「他国人」のものであっても、称讃されたことだ。

C・C・クロウストン


神に満ち足りてキリストを喜び、聖霊に満たされれば、どれほど弱いクリスチャンであっても、何かわからないものに対する渇望を絶えず感じているこの世の人々から驚嘆されることだろう。

ジョージ・V・ウィグラム


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