2020年2月24日(月)の手紙

2020年2月24日(月)


『競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。』コリンと人への手紙第一9章24節~27節


私たちの前には競技が設定されている。
すべての人生は競走だとみなせるだろう。
すべての人生を闘技と比べることさえできるかもしれない。

しかしながら、信仰によるよき闘いと、信仰に背き、信仰を欠いた悪い闘いとがある。
だから、この世が私たちの前に設定した競技は、私たち自身の野望が選んだものであり、新しくされていない私たち自身の活力によって走っているものだ。

そして神が私たちの前に置いてくださった競技がある。
私たちは自分の心をイエスにささげ、「その口から出てくる」尊厳と愛と「恵みのことば」、すなわち「わたしに従ってきなさい」ということばを聞いたとき、その競技に加わるのだ。

自然な状態で私たちが惹かれる競技がある。
罪深いものではないにしても、単なる人間的な動機に動かされ、この世のやり方で追求し、ゴールに到達することだ。
これは色あせる若葉の冠である。

しかし、神が定められた競技では、すべてが神によるもので、神聖で霊的で永遠のものだ。
イエス・キリストによる崇高な召命からいただける報いは、朽ちない不滅の冠であり、光と恵みを受け継ぐものであり、イエスご自身の玉座である。

主は、競走に勝ち、走路を走りきった信徒たちを、ご自分のもとに迎え入れてくださるのだ。

競技の方法と規則は、聖霊によって植えつけられたキリストの考え方、つまりイエスのことばだ。
競技の力とエネルギーは、主がご自分を待ち望む者すべてに贈る、信仰を一新させる力である。

競技は神によって私たちの前に置かれている。
私たちがその走路を走りきる力を、神が新たにしてくださるのである。

アドルフ・サフィア


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