2020年2月17日(月)
『ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛した。…ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。』サムエル記第一18章1節~4節
この場面はなんと麗しい一幅の絵であることか!
愛が自らの衣服を脱いで、その対象に着せようとする絵である。
サウルとその息子ヨナタンには大きな違いがある。
サウルがダビデを連れ帰ったのは、こんなに重要な英雄を自分の家に留め、そばに置くことによって自分自身を偉大に見せるためだった。
ところがヨナタンは、自分が着ているものを脱いでダビデに着せた。
これは愛であり、その魅力的な行動の一つによるものだ。
ヨナタンは何千というイスラエル人と同様に、エラの谷の場面を、息を呑んで見守っていた。
彼はダビデが恐ろしい敵ゴリヤテにただ一人で向かっていくのを見た。
ゴリヤテの身体の大きさや態度や言葉は、人々を恐怖に陥れていた。
ヨナタンは、信仰の手によって倣慢な巨人が打ち倒されたのを目にした。
彼はあざやかな勝利にすべての人々とともに参加したのである。
だがこれだけではない。
ヨナタンの心を満たしたのは勝利だけではなく、その勝利者であり、なされた働きだけではなく、それを成し遂げた者だった。
ヨナタンはこういうだけで満足はしなかった。
「神よ、感謝いたします。
巨人は死に、私たちは救われました。
自分たちの家に戻って、祝うことができます」
いや、違う!
ヨナタンの心はその勝利者の人柄に引きつけられ、結びつけられた。
それは勝利に価値を置かないということではなく、勝利者にさらに価値を置くということだ。
ゆえに彼は、自分の愛情の対象に着せるために、自分の上着やよろいかぶとを脱ぐことに喜びを見出したのである。
ここにクリスチャンの私たちにとっての教訓がある。
教訓だけではなく、戒めもある。
私たちは贖い主よりもむしろ贖いに、救い主よりも救いに、心が占められがちだからだ!
私たちが救われたことを喜ぶべきなのは何の疑いもない。
だがそこで留まってしまっていいのだろうか。
私たちはヨナタンのように、私たちのために死者を葬る土の中に降りてきてくださった人となられた主を偉大に見せるために、自分が脱ぐべきではないのか。
確かに私たちは脱ごうとするべきだし、もっとそうするべきだ。
なぜなら、主は私たちに何も強要なさらないからだ。
ダビデはヨナタンに、上着を求めることも剣を求めることもしなかった。
もしもダビデがそうしていたら、この場面の魅力はいっさい損なわれてしまっていただろう。
だがそうではない。
それは純粋に自発的な行為だった。
ヨナタンは無私になって、ダビデのことだけを考えたのだ。
だから、私たちと真のダビデについてもそうあるべきなのだ。
愛はその対象のために喜んで自分の衣服を脱ぐ。
ああ、私にこの謙遜の精神がありさえすれば!
この、うわべだけの信仰告白と空っぽの宗教的な儀礼の今日において、どうか私たちの心がもっともっと引き出されてキリストに結びつけられんことを!
私たちを十分に聖霊で満たし、心の決心をもって、我らの主であり救い主であるイエス・キリストに固く結びつけたまえ!
C・H・マッキントッシュ
今日、有能なダビデの臣下が非常に必要とされている。
ダビデに忠誠を誓った人々である。
国の民も、彼らの奉仕の利益を受ける。
だが彼らが思っているのは、ただダビデのことだけなのだ。
J・B・ストーニー
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