2020年2月13日(木)の手紙

2020年2月13日(木)


『私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。』ピリピ人への手紙1章21節


クリスチャンとは、霊的に死から生き返った人のことだ。
その人の内に霊的ないのちが生きていることは、生まれ変わっていない周りの世界と彼とを区別する唯一の重要な基盤である。

この霊的ないのちは、私たちに生まれつき備わっているものではなく、生まれながらに有しているいかなるものからも造り出すことはできない。
私たちに与えられなければならないものだ。

それゆえ、「神が私たちに永遠のいのちを与えてくださった……そして、そのいのちが神の御子のうちにある」。
御子を信じたとき、私たちは御子のものとなり、その結果、「血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。

それによって私たちはキリストによる「新しい創造」となり、「神のご性質にあずかる者」とされたのである。

それゆえにクリスチャンのいのちは、聖霊を通して私たちの内におられるキリストのいのちである。
それはキリストのいのちに似たものではない。
キリストのいのちそのものなのだ。

このことは、新生によって私たちが受けるのは永続するいのちだけではなく、それよりはるかにすばらしい永遠のいのちだという事実に示されている。
なぜなら、永続するいのちには終わりはないものの、始まりはあるだろう。
しかし永遠のいのちには、始めも終わりもないからである。

今、この宇宙で永遠のいのちをもっておられるのは三位一体の神だけである。
ゆえに神が私たちに永遠のいのちを与えることのできる唯一の方法は、聖霊によってキリストを通して、ご自身のいのちをもって私たちを所有することである。

これが、パウロが「私にとって生きることはキリストです」と言ったときに意味したことなのだ。

このことは私たちには高尚すぎる奥義である。
私たちの誰ひとりとしてこれを理解することはできないが、信じることはできるのだ。

J・E・コナント


幸福は私たちの内だけにあるものではなく、また、外にあるものでもない。
それよりも、幸福とは私たちが神と結びつくことなのだ。

ブレーズ・パスカル


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