2020年2月10日(月)の手紙

2020年2月10日(月)


『今、主があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし主が私とともにいてくだされば、主が約束きれたように、私は彼らを追い払うことができます。』ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。このようにして、ヘブロンはケナズ人エフンネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。』ヨシュア記14章12節~14節


多くの人は、自分のしでかした失敗が片時も頭を離れず、いつもそのことばかり考えているので、さらに失敗を積み重ねていく。
常に失敗することを考えていると、失敗は確実なものとなる。
切り抜ける道がないと思いつづければ、その思いが切り抜ける道をふさぐからだ。

私たちが勇気をもてるのは、神の約束から目を離さずにいるときだけである。

なんと多くのクリスチャンが、カレブの特徴だった雄々しい勇気に欠けていることだろう!
彼らは、自分たちの苦労がどれほど大変なものか、困難がどれほど打ち勝ちがたい性質のものかということしか考えられない。

ところが「アナクの子孫」約束の地に住んでいる巨人を恐れない者たちは、「追い払うことができ」るのだ。
カレブはアナク人のことをまったく恐れていなかったので、彼らの砦があった山地を約束の地における自分の割り当て分として定めるように、実際にヨシュアに求めたのである。

カレブは、アナク人が「背の高い者たち」だという事実にも、その拠点が「城壁のある大きな町々」であるという事実にも動揺することはなかったので、何の不安もなく彼らに打ち勝った。

この打ち勝つということに関する包括的な疑問は、あなたは自分自身を信じているのか、それとも主を信じているのか、ということだ。
もしもあなたが自分に頼っているなら、アナク人が強いか弱いか、彼らの町がしっかり城壁で守られているかどうかを当然、考慮しなければならないだろう。

しかし神をよりどころとしていれば、人間の力量の疑問など思い浮かびもしないはずだ。
神に信頼を置いているなら、恐れる根拠は何もない。
神を信じるすべての者に勝利が確約されているからだ。

カレブに関連して注目すべきことがもう一つある。
彼はイスラエルの民全体に、こう警告した。
「ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる」。

彼はイスラエルの民に、土地自体に資源があり、それを用いれば土地を所有することができることを示そうとした。

「その地の人々は……私たちの餌食となる」と彼は断言した。

餌食とは何か。
餌食はあなたが食べるもの。
力を増し強めてくれるものだ。

土地の住民たちは「背の高い者たち」であると認められていた。
しかしカレブは、彼らは神の民にとっての食物なのだと約束したのである。

彼は神の約束を尊重しただけでなく、約束を理解させないようにする困難を忌み嫌った。
そしてカレブのように、真のクリスチャンであれば誰もが神をあがめ、どんな障害物も過重にみなすことはない。
それによって自尊心の入り込む余地はまったくなくなる。

神の前におのれを低くする者だけが、神の側に立つことができるからだ。

あなたが困難に出会うたびに、どうにもならない状況に陥るたびに、この問いを自分に投げかけてみよう。
「私は今ここで餓死するのか、それとも目の前に置かれた食物を食べるのか」。

もしあなたが勝利を求めて主を頼みにして、すべてに打ち勝った主の人生を実現するなら、あなたの進歩を阻もうとするそれらのアナク人をパンとして受け入れることで、新鮮な栄養分と増大する活力を見出すだろう。
しっかり食べない者はしっかり成長できない、ということを心に刻みつけよう。

多くの人は神のみことばと、神のみこころを行うことを肉として受け入れているが、アナク人のことは口に合わない食べ物として拒んでいる。
そうした食物を食べれば食べるほど、私たちは強くなれるのだ。
カレブはまさにその好例である。

アナク人のことをパンとして受け入れたので、八十五歳でも生命力にあふれていた。
長年、実に多くのアナク人を消化吸収してきたので、年齢をまったく感じさせない身体を造りあげたのである。

だから、これは霊的な領域のことなのだ。
クリスチャンの中にはほとんど困難に出会わない兄弟姉妹もいるが、彼らは霊的に脆弱だ。
それは彼らがアナク人を十分に食べ尽していないということで説明がつく。

一方、困難につぐ困難、誘惑につぐ誘惑に出会っては打ち勝ってきた兄弟姉妹もいて、彼らは活力に満ちている。
アナク人をたっぷり食べてきたから、というのがその理由だ。
サタンが私たちの歩む道に投じるすべての困難、すべての誘惑は、私たちにとっての食物なのだ。

これは神の定めた霊的な成長の手段である。

大きなトラブルを目のあたりにすると、神を信じていない者たちの心は恐怖に襲われるが、神に信頼する者たちは、「神をほめたたえよう。
ほら、また食べ物がここにある!」と言う。

私たちに対する試練は一つの例外もなく、すべて私たちにとってのパンなのだ。
試練を次々に受け入れていくにつれて、私たちはさらに豊かに栄養を与えられる。
その結果、ずっと力が増しつづけるのである。

ウォッチマン・ニー


とてつもない苦しみは、必ずしも、とてつもない罪の罰とは限らない。
時には、とてつもない恵みの試練であることもある。
聖化された苦しみは、霊を高めるものなのだ。

マシュー・ヘンリー


あなたはどちらの道を選ぶだろうか。
平らかな道と、ひどく険しい道だが、それゆえに、主が一足ごとに御顔をあなたに向けてくださる道と。

ジョージ・V・ウィグラム


a:109 t:1 y:0