2020年12月30日(水)の手紙

2020年12月30日(水)


『私の妹、花嫁は、閉じられた庭、閉じられた源、封じられた泉。』雅歌4章12節


深遠な人生を送るためには、主と直に親しくふれあうことが必要だ。

この箇所で語られているのは庭である。
聖書に見られるように、「園を設け」ることは、神がまず最初に考えられたことだ。

雑多な栽培用の通常の土地や耕作専用の畑とは異なり、庭はただ美と視覚的な楽しみだけを目的としている。
庭には木々があっても、林や森にするのが目的なのではない。

果樹もあるかもしれないが、やはり実を結ばせることが目的ではない。

庭の重要性は花々に付随している。
花はその美しさのためにだけ植えられるのだ。
花を植えるのは目に心地よいからである。

この庭が閉じられた庭と描写されているのは、公共の公園ではないことを意味しているからだ。
公園だったら、誰でも楽しむために立ち入ることができるが、閉じられた庭はキリストとその栄光のためだけのものだからである。

内側の美を目にして賞賛されるのはただキリストお一人だ。
この深い人生は、人を喜ばせるためのものではなく、キリストだけに喜んでいただくためのものなのだから。

こうした類いの人生は「閉じられた源」である。
水源は人々が使うためのものだ。

この源もそうであるとはいえ、これは主の喜びのために確保されているものである。
こうした種類の人生は「封じられた泉」である。

水源は人間の労力によって生み出されるが、泉は違う。
水源は人間のものだが、泉は神のものだ。

泉は私たちが神の御前で得られる喜びと満足とを象徴している。
そうした体験が他の人々に対して故意に閉ざされているのは、それが「封じられた泉」だからだ。

一言で言えば、クリスチャンは、自分の美点や追求するものや霊的な経験を人々に見せるために意図的に示してはならないということだ。

一方、その深い経験はすべて主のためにひっそりと封じられなければならない。
こうした深遠な人生だけが、主のみこころを満足させるのである。

兄弟姉妹たちよ、私たちの人生は往々にして、表面にあらわになっている部分があまりにも広すぎて薄っぺらなことがある。

どうか神が恵みを示し、私たちの内に十字架がさらに深く働くことを許してくださるように。
そうすれば私たちは、神の要求を満たし、みこころを満足させる深遠な生活を送るために根を張ることができるからだ。

ウォッチマン・ニー


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