2020年12月25日(金)の手紙

2020年12月25日(金)


『すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、……』エペソ人への手紙3章8節


主が用いることのできるのは、空の器だけである。
つまり、肉に属する者は誰も、主の御前で自分を誇ることはできないということだ。

肉的な性質、すなわち人間の堕落した性質は、キリストの十字架においてさばかれ、今や単なる約束という間題ではなく、キリストをもつという問題となっている。

私はまず、御子を通して神はどういうお方であるかを見出したが、次にはひとえにキリストに集中している神の愛を知るのである。

「父は御子を愛しておられ」それから「万物の相続者」であるキリストの手の中にあるすべてのもの、すなわち「測りがたい富」を知り、そして詩篇8篇にあるように、キリストを人間として知るのである。
「あなたの御手の多くのわざを人に収めさせ、万物を彼の足の下に置かれました」

箴言8章31節には、「わたしは……人の子らを喜んだ」とある。
キリストは御使いを選ばずに、御使いたちは彼らの場所において間違いなく祝福されているのに、あえて人の性質を取られたのである。

人々はクリスマスを祝っているが、キリストが来られたときの世の評価は、この世界が主に対して飼葉おけよりもましな場所を用意することができなかったという事実に示されている。

キリストが来られたとき、御使いたちは神が人間を喜ばれていると歌った。
ところが人間は自分の人生に主を迎えようとしなかったので、主は死ななければならなかった。
なぜなら「一粒の麦」のように死ななければ、一つのままだからだ。

しかし、主の願いはどんなに人に拒まれても、そのすべての拒絶を超えて、人を迎え入れることなのである。

もしも人が自分の人生に主を迎えようとしないなら、(人は霊的に死んでいるので)主は人を、よみがえった新たな人生にあずかる者とするためには、ご自分が死んで人を引き上げなければならない。

これは単なる優しさではなく(我々は主の優しさを毎日受けている)、完全な無限の愛である。
主の愛は罪人の代わりとなるために来てくださるのだ!

神の真理は、このことによってもたらされるのである。
主は人を、それまでいた場所から完全に連れ出してくださった。
その結果として、今や私は、人が「第二の人」によってまったく新たな場所に入るのを見るのだ。

そのお方は罪と死を経験し、神のさばきを受けて、今や人として神の栄光の内におられる。
そして私もその方とともにいる。
これは約束を超えた「測りがたい富」なのである。

ジョン・ダービー


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