2020年12月15日(火)の手紙

2020年12月15日(火)


『したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。』ヘブル人への手紙7章25節


私たちを招くキリストの声は、決して絶えることがない。
主が私たちに呼びかけるのは人生の朝である。
驚くほどの力が私たちの内にみなぎり、愛と希望と大志が心を満たしている。

そんなとき、主は私たちの最も輝かしい夢よりもさらにすばらしい人生を実現するように呼びかけておられる。

主はまた人生の真昼に、私たちに声をかけられる。
そのとき私たちは、焼けつくような日差しの中で、ますます強くなっていく力と増大する責任のために我が身に課せられた務めに精を出している。

同時に、自分のたましいに対する誘惑の強さも痛いほど感じている。
そんなとき、耳を澄ましさえすれば、私たちに力と忍耐とを呼び起こす主の声が聞こえるはずだ。

そして主は人生の黄昏にも、私たちに呼びかけてくださる。
夕闇が迫り、私たちの力は衰えはじめる。
興味は減退し、身を引いて後進に席を譲らなければならない。

そのとき、キリストは私たちを置き去りにはせずに、「完全に救うことができる」主ご自身を新たにまた豊かに経験するようにと招いてくださるのだ。

主は常にずっと私たちを招いておられるだけでなく、さまざまな形で呼びかけておられる。
主の声はやむない事情によって私たちのもとに届くこともある。
モーセの場合がそうで、エジプト人を打ち殺したとき、その結果として、神がモーセを偉大な使命のために新たな修練と準備とに招いておられたとは夢にも思わなかったのである。

キリストは「突然、天からの光に照らされた」タルソ人サウロの場合のように、いきなり光明を与えることで私たちに呼びかけられることもある。

ほんの一瞬の間に、新たな光の中にすべての過去が見え、すべての未来が新たな意味を帯びたのだ。
千年の間に起きなかったことが、一瞬のうちに起こりうる。
半生を通して闇に覆われていたことが突然、光に満ちあふれるかもしれないのだ。

私たちへの神の召命は、テモテの場合のように確信が育つことでもたらされることもある。
テモテは少年の頃から、神の声に耳を傾けるように教えられていたのである。

神はこれ以外の形でも老若男女を問わず、私たちに呼びかけておられる。
それは私たちをご自分のものとされたいと願い、私たちを救うことを喜び、私たちを用いることを意図しておられるからだ。

主が、私たち一人ひとりにそれぞれの場所と役割を与えておられることは間違いない。
それは牧師や医師、弁護士、画家かもしれないし、作家や教師あるいは商人であるかもしれない。

もっとそのほかにもあるだろう。
だがこれらのどの役割についても、その最大の意義を与え、その役割を遂行する中で確かな成功を与えるものは、神のご計画において、これらが単なる職業ではなく、神の召命による天職だということである。

W・グラハム・スクロギー


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