2020年12月11日(金)の手紙

2020年12月11日(金)


『最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。』ルカの福音書16章10節


私たちが神の召命を心に思い浮かべるとき、何かドラマチックで画期的で目をみはるようなものを考えてしまう者がほとんどだ。

サウロがダマスコの近くまで来たときの場面がすぐに思い浮かんでくる。
私たちは「天からの光」を目にし、天からの声を耳にする。
異邦人への宣教を行ったあの偉大な使徒に及ぼした神の召命の革命的な効果を、まざまざと思い描く。

しかし私たちが忘れているのは、きわめて多くの人が神の召命を受けたのは、日々の生活や奉仕という聖なる地盤に立っていたときだということである。

サムエルが神の召命を受けたのは、主の神殿で寝ていた。
すなわち、主の宮で日常生活を送っていたときだった。

また、ダビデに召命がもたらされたのは、羊の群れを追う牧場にいたときで、モーセは40年たったとき、シナイ山の荒野において神の召命を受けた。
使徒の何人かが召命を受けたのは、網を繕っているときだった。

これらのすべてのケースにおいて、召命は、彼らが日々の務めという聖なる地盤に立っていたときに与えられた。

このことで思い出すのは、私自身の若い時の体験である。
その頃、私は健康をひどくそこねていた。
自分の計画はどれもこれもすべて打ち砕かれた。
その時点では、神のご計画を何一つ見出せなかった。

ある日、私は机に向かって神のことばを学んでいた。
そのとき、大きな祝福が私の心にもたらされた。
それは燃えるような喜びと、その同じメッセージをほかの人々にも伝えたいという願いを私に与えた。

私は椅子に背をもたせかけて、天を仰いで祈った。
「神さま、私は、あなたがこのことを私に与えてくださったように、ほかの人々にも与えたいです。
ああ、そのチャンスが与えられさえしたら!」。

私は椅子から立ち上がって階段を降りていった。
私の姉妹が朝届いた手紙を手渡してくれた。
最初に開封した手紙は、前に住んでいたペンシルベニア東部の小さな町の川向こうにあるキリスト教青年会(YMCA)の理事からのものだった。

それはこんなふうに書かれていた。
「親愛なる兄弟へ、昨夜、私どもはバイブルクラスを始めることを決定いたしました。
ひざまずいて30分ほど祈ったあと、貴殿が私どもの必要としている人材であることを感じたのです。
どうか、こちらにお越しになって当会のためにこのクラスを教えていただけませんでしょうか」

それは小さなことのように見えたが、私には神による奉仕の聖なる地盤のように思えた。

その夜、私はYMCAに出向き、五人の心の広い鉄道員からなるバイブルクラスを担当した。
神は私自身のたましいに大きな恵みを与えてくださり、愛情深いその人々を助けようとされたようだった。

私は三年のあいだ、可能なかぎり忠実にそのバイブルクラスを教えた。
そしてもう一つクラスをもつようになり、さらにもう一つ増えた。

三年たったときには、私は十ものクラスを教えていた。
自分の一生の仕事を見出していたのだ。

ずっと立ちつづけてきた日々の奉仕の場が聖なる地盤であることが証明され、自分の人生に対する神のみこころがかなった喜びを見出したのである。

それだから私たちは、日々の忠実な奉仕という聖なる地盤に立っているクリスチャンに対して、神の召命が常にもたらされてきたこと、これからも常にもたらされるというこの偉大な真実に、注意を払いつづけようではないか。

ジェームズ・マッコンキー


私たちは主のみこころのままに自分をゆだねていると、主が私たちのためにみわざを行われるときに、戸を開いて主を確実にお迎えすることができるのである。

エドワード・デネット


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