2020年11月23日(月)の手紙

2020年11月23日(月)


『神は、罪を知らない方を私たちのために罪ときれました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。』コリント人への手紙第二5章21節


福音の真実はこうだ。
主イエスが十字架につけられたとき、主は私たちの罪を負われただけではなく、神によって「罪とされて」十字架にかけられ、「第一の人」とすべて同一とみなされて、第一の人に対する神のさばきを受けられた。

その結果、あなたは神のさばきの下で、第一の人が終わったのを見るのである。

第一の人の歴史は、「第二の人」の死によって神の御前で信仰のゆえに終わりを告げた。
すべては十字架によって罰せられ、今や罪は何一つ残っておらず、罰せられるものは何も残っていない。

パウロが言っているとおりだ。
「肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。
神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです」

神は罪を軽視することはなさらなかった。
キリストは私たちの罪を負い、罪を取り除いてくださったが、それだけではなかった。

主は罪に定められ、罪のためにさばきの地獄に下り、その底からよみがえられたのである。
主は私のいのちとなり、神の御前で新たな場所を得る唯一の手段となってくださった。
私は主の内にあり、ゆえに主のおかげで決して罪に定められることはない。

肉(人の罪深い性質)における罪が赦されることはなかった。
神はそれを処罰された。
神は決して罪を赦さない。

神は罪人を赦し、罪を特赦し、キリストの血によって罪を消滅させるが、罪、つまり人の肉的な性質における罪の邪悪な原理……神ご自身に敵対する耐え難く救い難い原理を、さばきによって処理することができる。

悔い改めない罪人の罪は「火の池」によって、恵みを通して主を信じる者の罪は救い主の十字架によって、さばかれるのである。

もしあなたがクリスチャンとしてキリストにあって神の御前にいるなら、そこには「罪の処罰」は存在せず、また存在しえない。
なぜならあなたのいる場所はまさに、ご自分がさばきを受けることによってあなたの罪とあなたに属するいっさいの罰を離れて、後にしてきたお方の内にあるからだ。

そのことは、ローマ人への手紙8章の終わりで論じられている。
「だれが、私たちを罪ありとするのですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです」

主は、身代わりとなって苦しみを受けて死なれ、ご自身が罪に定められたその者たちのことを「罪あり」とされるだろうか。

いや、絶対にありえない!
主の類いなき御名を賛美せよ。
声高らかにハレルヤ、と!

W・T・P・ウォルストン


人として生まれ、十字架につけられたキリストのすばらしさは限りなく、神の慈悲と愛は果てしない。
聖霊の全能の力と聖めの影響力を妨げるものはなく、人の状況の改善には制限がないから、神が、真に信じる者すべての心に与える救いの効果に限界などありえない。

私たちは求めれば与えられ、喜びに満たされる!

さあ、神を賛美しよう。
私たちをそうした救いの状態に招き入れてくださった神を。
私たちは救われ、その救いの恵みによって、人生の終わりまで同じ救いの状態に留まることができるのだ。

アダム・クラーク


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