2020年11月18日(水)
『わたしを遣わされた父が引き寄せてくだきらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。』ヨハネの福音書6章44節
救いは全面的に恵みによるもので、私たちはそれを受けるに値しないだけではなく、神が救いを必要とする意識を呼び起こそうとなさるまでは願いさえしないものだ。
そして救いを必要とする思いが目覚めたときには、私たちが必要としているものや願っているものが何もかも備えられていることを知るのである。
そう、神は「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行って」おられるのだ。
救いは全面的に主によるものであり、神のすべてのみわざをちっぽけな人間の模造品と区別する無限の知恵と力と義のしるしを備えている。
自由で確実で完全で偉大な救いは、あらゆる点で神にふさわしい。
その救いは偉大であって、その対象(地獄にふさわしいみじめな罪人)や
目的(神からあれほど離反した被創造物を主の御姿と愛、そして永遠のいのちと幸福に戻すこと)や
手段(神の愛する御子が人間として生まれ、辱めと苦しみを受け、十字架上で死なれたこと)を
どのように考えようと関係ない。
それには人や場合による例外はなく、条件や資格に左右されることもない。
代価なしに、主ご自身が彼らの内に成し遂げ、与えてくださるものなのである。
ジョン・ニュートン
私たちはしばしば、こうした思いを抱くことはないだろうか。
私たちが神に近づこうとするために(自分たちが、あるいは主が)まだ何かやっていないことがあるのではないか、という思いを。
ゆえに私たちはしばしば、主イエス(本質)よりも、むしろ礼拝する状況に心を占められるようになってはいないだろうか。
私たちはしばしば、自分自身の心の中に隔たりを感じて「神に近づく」権利に疑いをもつことで、主に背いているのではないか。
あたかも、主イエスの血の代わりに、自分たちの愛のぬくもりが私たちを神に近づけるのだといわんばかりに。
ウィリアム・ケリー
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