2020年11月15日(日)の手紙

2020年11月15日(日)


『幸いなことよ 主を自らの神とする民は。』詩篇144篇15節


もしも神の民が自ら過ちを犯すことがなかったら、どれほど安楽で心地よい生活を送れるだろうか。

神を恐れ、義を行い、主に受け入れられているのに、日々意気消沈し、心配ごとや不安や不平不満でいっぱいで、いつも落ち着かない気分でいる。
それは、神にあって喜び、神にゆだねる生活を送っていないからなのだ。

彼らはそうした生活を送ろうと思えば送れるし、送らなければならないのである。

神は、彼らが安楽に生きられるように適切な備えをしてくださっている。
それなのに彼らは、神が自分たちのために整えてくださったものを用いようとはしないのだ。

ああ、誠実で罪を恐れているように見えるすべての者が、快活で何事をも恐れないようになりさえしたら。
また、神を父と呼び、神を喜ばせ、その愛に留まりつづけることに心を砕いているすべての者が、ほかの心配事もすべて神に預け、父なる神に自分の道をゆだねることを学んだなら。

「主は 私たちのために選んでくださる。私たちの受け継ぐ地を」。
神は私たちにとって何が最善であるかを、私たちよりもよくご存じだ。

神よ、私に答えてください。
私はしばしば次のように言ってきたし、これからもそれに従って生きていく。

「神に仕え、神との親交に費されるその聖なる至福の人生は、この世で人間が生きることのできる最高に快適で心地よい人生なのである」。

マシュー・へンリー


クリスチャンも他の人々と同様に、不幸な出来事に遭遇する。
もしかしたら、さらに悲惨であるかもしれない。

クリスチャンは「日常の事柄」における困難や喪失に直面する。
死そのものと向き合う備えもしていなければならない。
だがそうした状況であっても、心穏やかに神を信頼している。

最後には天に行くことが確実なだけでなく、心の中ではすでに天の国に住み、多少なりとも味わって楽しんでいるからだ。

クリスチャンにとって、神は現実であり、常にそばにおられる。
クリスチャンは「すべての理解を超えた神の平安」を知っており、またクリスチャンが経験する喜びを奪い夫去る者はありません」。

このことは確かに、世における私たちの証しとするべきだが、それは主イエスご自身が私たちの内でそのような人生を生きてくださるときにのみ可能なのである。

H・F


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