2020年11月1日(日)の手紙

2020年11月1日(日)


『イエスは、客として招かれた人たちが上座を選んでいる様子に気がついて、彼らにたとえを話された。「結婚の披露宴に招かれたときには、上座に座ってはいけません。あなたより身分の高い人が招かれているかもしれません。あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』と言うことになります。そのときあなたは恥をかいて、末席に着くことになります。招かれたなら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うでしょう。そのとき、ともに座っている皆の前で、あなたは誉れを得ることになります。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」』ルカの福音書14章7節~11節


ある人がこう言った。
「私は偉大な人になりたいと願うのをやめるまで、心から幸せだと思ったことがありませんでした」。

これは実にすぐれた教訓的な真実である。

私たちがひとかどの者になりたいと願うのをやめるとき、自分は取るに足らない者であることに満足するとき、そのときこそ、真の偉大さ、真の幸福、真の平安が本当はどんなものであるかを味わうことができるのだ。

ひとかどの者になりたいと休む間もなく願いつづけることは、たましいの平安をそこねてしまう。
高慢な心と野望に燃えるたましいにとって、このことは貧しく非生産的な姿勢に見えるかもしれない。

しかし、クリスチャンとなって柔和でへりくだっているお方のことを学びはじめた者にとってはそうではない。
ご自分を空しくされたお方の御霊を飲んだ者となったとき、それがどの程度であっても、私たちは物事をまったく違った目で見るようになる。

上へ上ろうとする道は下に下がる道だ。
これはキリストの教え、イエスが私たちのために教えて模範を示された教理である。

イエスの次の言葉を心に留めよう。
「イエスはひとりの子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。
『まことに、あなたがたに言います。
向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」。

これは天の御国の教義、自分を無にする教義である。

尽きせぬ私利私欲の追求と自己の高揚ばかりを考えているこの世のありさまを考えるとき、私たちクリスチャンはなんと異なる方向へと召されていることか!

C・H・マッキントッシュ


自分自身を完全にからっぽにしたとき、私たちは聖霊で満たされることができます。
そして私たちは勝利者となり、聖霊の手から与えられるものは何もかも受け入れられるようになります。

そればかりか、すべてのものを受け継ぐように備えられるのです。

コーリー・テン・ブーム


あなたが自らキリストを喜び楽しんでいると、ほかのクリスチャンにもそのことがわかる。
それが彼らへの証しとなるのだ。

ジョン・ダービー


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