2020年10月8日(木)の手紙

2020年10月8日(木)


『そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」』使徒の働き2章38節


聖霊が天より下ってこられたのは、今や信じる者のたましいが父なる神や御子との天与の関係を享受し、御父と御子との永久に変わらぬ親交へと導かれるためである。

それこそがキリスト教の教義である。

ああ、それなのにキリスト教徒は、聖霊がここにおられることを忘れてしまっている。
神の御霊を注ぎたまえ、という祈りを実にしばしば耳にするのは、こういうわけなのだ。

もしまたそうした請願の祈りを聞いたら、その相手に、これまで使徒の働き2章を読んだことがないのか、と訳ねることで真の奉仕をしようではないか。

聖霊はもう来ておられる。
神の御霊はここにおられるのだ。

もしもある日、キリストが12人の弟子たちと一緒に歩いておられたとき、弟子のひとりがくるっと背を向けて、どうか神の御子をお与えください、と必死になって神に祈り出したら、主はどう思われただろうか。

おそらく、ほかの弟子が彼に向かってこう言ったに違いない。
「いったい、何を言っているんだ。
主はもうここにおられるじゃないか!」と。

同様に、聖霊が注がれますようにと祈ることは、実に矛盾しているではないか。
「聖霊は影響を及ぼすだけなのかと思っていました」と、あなたは言うかもしれない。

そう言いたくなるのはわかるが、聖霊は「キリストの名によって」この地上に来られ、この地上に住んでおられる。
そしてこの地上でキリストに代わって働かれ、信じる者のたましいが父や御子とのふれあいを楽しめるようにしてくださっているのだ。

そのことをわかってほしい。

私たちは「天から力を送ってください!」と祈ってはいけない。
その必要はまったくないからだ。

聖霊はすでに私たちとともにおられる。
聖霊がここにおられることを、私は実感している。
聖霊が来てくださるように祈る必要はないのだ。

使徒の働き2章を読めば、聖霊がすでに遣わされていることがわかるだろう。
聖霊が来られたという正確な記述があるからだ。

聖霊が天に戻ってしまわれた、などという記述を見たことがあるだろうか。

エバン・ロバーツ


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