2020年10月30日(金)の手紙

2020年10月30日(金)


『神は、私のように人間ではありません。その方に、私が応じることができるでしょうか。「さあ、さばきの座に一緒に行きましょう」と。私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。神がその杖を私から取り去り、その恐ろしさが私をおびえさせませんように。』ヨブ記9章32節~34節


あなたは、クリスチャンであることを一日たりとも維持することはできない。
一時間たりともキリストに従うことはできない。

あなたはそうするように求められてはいない。
あなたが求められているのは、あなたがキリスト・イエスを主と受け入れたように、主によって歩みつづけることだけだ。

必要なものをすべて主の満ち満ちた豊かさに求め、主の源泉から引き出すことである。

あなたの悔い改めは十分ではないし、それはこれからも変わることはない。
あなたは罪を恥じ悲しむべきなのに、恥も悲しみも十分に感じることができない。

しかし主イエスは、あなたの代わりに恥や悲しみを感じることができるし、そうしてくださる。

主は罪を肉体において糾弾された。
それがご自身の肉体であるにもかかわらず。

主はあなたの代わりに罪に立ち向かい、神の側に立たれた。
あなたの側にも立たれた。
主は「ふたりの上に手を置く仲裁者」なのである。

あなたは神を愛しているが、その愛は十分ではない。
どれほど多くの正直なクリスチャンの心が、神に対する愛が足りないと嘆きつづけていることか!

言うまでもなく、今のあなたの神への愛は十分ではないし、これからも決して十分に愛することはできないのだ。

神はあなたに、救いを獲得するための愛を求めることはなさらない。
求めておられるのは、あなたが神の愛を受け入れること、そしてあなたが神の愛を受け入れたときに、あなたに対するその愛の輝きがふたたびあなたから神へと返ることなのだ。

あなたの愛は弱く貧しい。
たとえあなたが殉教者として死ぬほどに神を愛したとしても、神があなたを愛してくださった偉大な愛とは比べものにならないのである。

それだから私は、あなたの心が自分の状態や状況、感情といった自分自身のことでいっぱいになるのではなく、キリストのことで占められるようにと祈っている。

J・ラッセル・ハウデン


私たちはひとりのたましいに対して語るときも、千人に対して説教するときと同じように神に頼っている。
そのことを私は経験によって学んだ。

あるとき私は、病の床についている人に自信満々で会いに行って、自分には何も語るべきことがないことを知った。
そしてそのとき私は、説教に向かうときと同じように、ひとりのたましいに対するメッセージを主が与えてくださるのを待たなければならないことを教えられた。

私たちは、ひとかけらの自信すらも心に残らないようにすることを心に刻みつけようではないか。

エドワード・デネット


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