2020年10月23日(金)の手紙

2020年10月23日(金)


『しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。』ヤコブの手紙1章25節


もしも一片の鉄が口をきくことができたら、じぶんについて何と言うだろう。
「ぼくは黒い、ぼくは冷たい、ぼくは固い」。

しかし、それが炉にくべられたら、どんな変化が起きるだろうか!
鉄でなくなるわけではない。
だが黒くはなく、冷たくもなく、固くもなくなってしまう!

鉄は新たなことを経験しはじめる。
火と鉄は依然として別個のものではあるが、その結合のなんと完全なことだろう。
二つは一つなのである。

もし鉄が話すことができても、鉄だけでは、自分を輝かせることはできない。
しかし、鉄を熱し燃え上がらせつづけてくれる火の中でなら、輝くことができるのだ。

クリスチャンについてもそうであらねばならない。
クリスチャンに、本来のあなたはどのようなものか、と訳ねてみるといい。

「私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です」と答えるだろう。
彼自身に任せたら、「からだのうちにある罪の律法のうちにとりこに」なることは避けられないからだ。

しかし、「主イエス・キリストとの交わりに入れられ」、「キリストのうちにとどまる」ことは、その人の特権である。
そして私たちのいのちであり純潔であり、力であるキリストによってキリストの御霊は私たちという存在のすべての部分に浸透することができる。

クリスチャンはもはや「古い罪の性質のいいなりになることはなく、聖霊に従って歩む」人となる。
もはや「あやまちを犯し……悪の道に落ち込まないように」なり、「罪と死の律法から解放」されて、救いの内に守られる。

罪の力と奴隷状態とから解放される幸いな経験が示唆しているのは、聖霊が直ちにその人の内に入り、ずっと住んでくださることである。

クリスチャンは自分を誇ることはできない。
キリストご自身から離れて存在することも、純潔を得た状態を誇ることもできないのだ。

クリスチャンは一片の鉄のようなものだ。
炉から引き出されたとたんに、黒く、固く、冷たい状態に戻りはじめる。
それは鉄の内にもたらされる一度かぎりの働きではなく、火が鉄に対して一瞬一瞬ずっと続いて及ぼす影響によるものであり、自然な状態に戻ろうとする鉄の傾向を打ち消すものだ。

それが、霊的な生活における「自由をもたらす律法」である。
それによって私たちは、「罪の律法」からの解放を経験しつづけ、そしてまた自分自身が生来どれだけ堕落しているかを深く意識……すなわち、真の謙遜の精神で悪に打ち勝つ生活を深く意識するとはどういうことなのかを理解できるようになるのだ。

エバン・ホプキンズ


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