2020年10月2日(金)
『トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」ヨハネの福音書20章28節
私たちの罪と悪しき性質を除けば、すべてにおいて、イエスは私たちと一つである。
主は人として成長され、優雅さを身につけた。
労働し、涙を流し、祈り、愛した。
私たちが経験するすべての点で誘惑を受けたが、罪を犯すことはなかった。
トマスとともに私たちは、イエスに「私の主。私の神」と告白する。
主を神とあがめ、崇拝する。
それでも、私たちをご自分とこんなにも親しくなるように招いてくださるお方は、ほかにはいない。
人の心にこんなにも近く寄り添おうとするお方はいない。
この世の中で、私たちがこんなにも怖がらずにすむお方は、ほかにはいない。
イエスは遠い古代人のひとりなどではない。
主がどれほど穏健で純粋に人間であられたことか。
マルタは主を責めた(「主よ。もしもここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」、
「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか」)。
ィエスが死人をよみがえらせ、嵐を鎮め、山でモーセとエリヤと話し合っているのを見てきたヨハネは、晩餐のときに主の胸に頭をもたれかけることをためらわなかった。
ペテロはイエスに、最初は自分の足を洗わないでくれと言ったが、あとで「手も頭も洗ってください」とせがんだ。
彼らはイエスに愚かな質問をし、なじる一方で、主をあがめ、慕った。
そしてイエスは彼らを姓ではなく名前で呼び、「恐れるな」と語りかけ、彼らを愛していると言って安心させた。
そのどれをとっても、主は私には完全に愛すべきお方に見える。
主の完璧さはギラギラときらびやかに光るものではなく、照り輝くものだ。
主イエスの聖さは実にあたたかく人間的なので、人を魅了し、奮いたたせる。
主は罪人を受け入れ、一緒に食事をされた。
ありとあらゆる種類の罪人たちだ。
「ユダヤ人の議員」であり「イスラエルの教師」であるニコデモは道義的で宗教心のある罪人だし、「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア」は衝撃的な種類の罪人だった。
主は、澄みきった輝く流れがよどんだ淵に注ぎこむように、罪人の人生に入られた。
主の流れは汚染されることを恐れず、その清らかな活力がよどみを清めるのである。
『たましいの糧』
キリストの愛の目的は、主ご自身が楽しんでおられるすべての喜びに、私たちを招き入れてくださることだ。
ジョン・ダービー
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