2020年10月19日(月)の手紙

2020年10月19日(月)


『子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。』ヨハネの福音書5章19節


私たちは聖霊が来てくださり、留まってくださることを望んでいるだろうか。
そうであるなら、聖霊が示してくださるすべての事柄について、子羊のようにあらねばならない。

カルバリの丘に向かう子羊に目を向けてみよう。
そうすることで、自分自身の心もはっきり見えてくる。
そうすることで謙遜になり、自分たちがどれほど主とは異なっているかがわかってくる。

子羊の立場を取ら『ない』ことがどれほど多いかに気づくのだ。

少しの間でも、主を子羊として見てみよう。
主は、純な子羊であられた。
子羊は神の被造物の中でも、もっとも単純なものの一つである。
子羊には自分自身を救う計画を立てることができない。
まったくの無力だ。

主イエスは私たちのために、ご自分を空しくされた。
純な子羊となられたのである。

主は独自の力も知恵ももっておられなかった。
苦しみから抜け出そうとはなさらなかった。
いついかなるときも、父なる神にゆだねておられた。

しかし、私たちは純ではない!

自分を助けるための計画を立てる。
ありとあらゆる方法を試して、困難から抜け出そうとする。
自分自身の力でクリスチャン生活を生きようと試みるのだ。

自分の力で、神のために労しようとする。
自分をひとかどの人物とみなし、神のために何事かできると思っている。

もしも私たちが純な子羊になろうとしなかったら、神の御霊はいかにして私たちのもとに留まってくださるのだろうか。

ロイ・ヘッション


すべての友よ、へりくだれ。
神の生活に留まって、へりくだりつづけよ。

ジョージ・フォックス


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