2020年1月9日(木)
『以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなきい。』ローマ人への手紙6章9節
神が求めておられるのは、、私たち自身である。
金銭や時間や奉仕や才能といった賜物はどれ一つとして、私たち自身を求める神のみこころの切々たる思いにかなうものではない。
なぜなら、神は愛であり、神の愛は何ものにもまして心を手に入れたいと思うからだ。
それだから自分を明け渡すことは、贖い主と贖われる者との取引であり、明け渡した心という聖なる贈り物に欠けているものは、すべてに欠けているのと同じである。
もっとも貧しく、もっとも社会的地位の低い者の心であっても、愛を必要としているときには、金銭を見ても後ずさりする。
私たちのたましいを愛してくださるお方に対しては、どれほどそうであろうか。
金や銀、時間や賜物、伝道や奉仕は、明け渡しに伴うものとしては神に受け入れられるが、決してそれを『免除するもの』とはならない。
富や時間や努力は神にささげても、心の奥底では決して自分自身を神に明け渡してはいない人々がいる。
声に出さずにひそやかに神とのふれあいをもつとき、この問題が彼らの前に姿を現す。
彼らは青ざめて震え出し、この神との明確な取引に尻込みしてしまう。
それでも、神が自分にとってすべてであるなら、私たちは何もかも神に明け渡さなければならないのだ。
贖い主と贖われる者との信頼に満ちた関係は、クリスチャン生活の最高の恵みである。
その関係は、私たちのためにご自分を与えてくださった方に、私たちもまたおのれ自身をささげないかぎりは、決して確立できないものだ。
自分自身をこのように神に明け渡すことなくしては、救い主として知ってはいても、深い意味ではまだ『主』として受け入れていないのである。
ジェームズ・マッコンキー
あなたの主とあなた自身との間には、何か争点があるでしょうか。
ささいなことだが、どうしても明け渡せないようなものが。
だが神は常に正しくあられ、変わることがありません。
明け渡さなければならないのは『あなたの』心なのです。
そうすれば神の平安はあなたのものとなります。
神はあなたの罪をすべて贖うささげ物をしてくださいました。
しかし今度は、あなたが自分の意思を神に明け渡さなければならないのです。
今、そうしますか。
T・C・ホートン
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