2020年1月25日(土)の手紙

2020年1月25日(土)


『神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをきばかれるからである。』伝道者の書12章14節


私たちの過去の生活のすべて、一つひとつの行動の意味、その行動の目的だけでなくその動機までもが、私たちに明らかにされるであろう。
すべてのことの源泉が明らかにされる。

私たちの行動が、生まれながらの肉的なもののエネルギーから生じたのか、あるいは神の御霊によって生まれたのかが明らかにされ、また私たちのもっとも献身的な奉仕と思われるものの中にどれほどその二つが入り混じっていたかも、明らかになる。

私たちの恵み深い主の忍耐強いあわれみのうちに、これらのことがすべて明らかになるのは、あの最後の審判の時である。
それも私たち一人ひとりに対して明らかにされるのであって、必ずしも広く一般の人々に対してではない。

その結果、私たちはかつてないほど大きく私たちの神の恵みを拡大して見せ、使徒パウロが言ったように、「私たちではなく、私たちとともにおられる神の恵みが私たちに機会と能力を与えてくださり、それによって私たちは主の奉仕をどんなことでもできるのです」ということを認めて満足するのである。

一方、その日には、成し遂げられたすべてのよき働き…キリストの完全無欠な評価によってよしとされた働きが、主の愛する人々によるものとみなされ、キリストの喜びとなるだろう。

もしも誰かに、「どれほど淡い光であってもあの最後の審判の日の完全な光の中に必ずさらされなければならないとしたら、それをどうやって耐えられるだろうか」と訊ねられたら、次のことを思い出そう。

キリストのさばきの座の前に出るとき、私たちは「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められ」ている。
それゆえに主のみこころと深いつながりをもつことで、われわれの心は、自分たちが行った肉的なものの働きに主がどんな宣告を下されようと、すべて心底から「アーメン」と唱えることができるだろう。

それだけではない。
私たちは神の前で喜びの声をあげる。
神の前にいられることで、神の恵みへの感謝はさらに強くなり、神がその愛するひとり子を通して私たちに現してくださった永遠の愛についての想いを深めてくれるからである。

エドワード・デネット


もしも主が私を用いてくださったら、それは大いなる名誉だ。
もしも主が、私がお山の大将になったことで私を脇に追いやられたら、それは大いなるあわれみである。

主はあたかもこうおっしゃっているようだ。
「わたし自身に満足しなさい。
わたしがあなたを愛している、ということを知って満ち足りなさい」

あなたは神の愛に満足しているだろうか。
すべての奉仕の奥義は、『主人』の恵みを正しく認識し、感謝することである。

ジョン・ダービー


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