2020年1月19日(日)の手紙

2020年1月19日(日)


『私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、』ピリピ人への手紙3章10節


クリスチャンが進退きわまって打ちのめされてしまうのは、心の底まで試練を受けるような重大な危機と呼ばれるものよりも、感情を害する程度の、ちょっとした不快なことのほうが多い。

自分は軽んじられてきた。
自分にふさわしいと感じられる立場を与えられてこなかった。
思いやりのない、不当な扱いを受けてきた。
自分の意見や感情は顧みられたことがない。
ずっと自我を傷つけられてきた。

その結果、私は沈みはじめて、打ち負かされつつある。
怪物ではなく、単なるハエ一匹のせいで。

それでも敗北には違いない。
“浮きかす”が、以前は自由で喜んでいた私の霊を覆っている。
私はいわゆる「自己という器」の中へと沈み込んで、自己中心的になってしまった。

「神と子羊の御座から出て」流れ出る永遠のいのちは、私の存在に流れこむことも流れ出ることもなくなった。
私の足取りは重くなり、私の顔は今や不幸な暗い表情を浮かべている。

私は明らかに打ち負かされている。
プライドが傷つけられたせいだ。
私は自分に目を向け、私の主であるイエスから目をそむけていたのだ。

もしも私の答えが死という崇高な答えだったら、すべてはどんなに違っていただろうか!
私は即座にこう答えていただろう。
「彼らは私の主を十字架につけた。これは重要なことではない。
それはさらに深く『キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になれる』チャンスだからだ。
その結果、主の復活にもさらに豊かにあずかることができるだろう。

主よ、これまで私を傷つけてきたこれらのことに感謝します。
私を傷つけてきた者たちを祝福してください。
あなたが赦されたように私も赦します。
私が無であることをこうして思い起こさせてくださったことを、深く感謝します。
あなたがすべてとなるために、私は喜んで無となりましょう。
アーメン!

今や私たちの答えが十字架の答えと同じになったからには、何ものも私たちを傷つけることはできない。
私たちは即座にすべてのものを恵みに変える。
下降することによって上昇し、死を通して勝利する。
聖なる十字架に育まれて生きるのだ。

後ろに蹴られたことは、実際には前向きに蹴られたことだった。
傷ついた感情は、聖霊が新たに働いて思い出させてくださる救い主の死という観点にさっそく照らして見る。
そうすれば御座から流れ出る永遠のいのちが、かつてないほど豊かにあふれ出る。

私たちの関心はキリストの栄光が現されることで、それ以外は何も重要ではない。

F・J・ヒューゲル


平安のない、不満分子と言い争っても大した効果はない。
それよりも彼らを主の御手にゆだねてしまったほうがはるかにいい。
なぜなら彼らの論議は、実は主に対して行っているのだから。

『砂漠の糧』


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