2020年1月14日(火)の手紙

2020年1月14日(火)


『待ち望め 主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め 主を。』詩篇27篇14節


信じなければならないときでも、生まれながらの心ではどうしても理屈をこねる傾向がある。
静まらなければならないときに、働いてしまいがちだ。
そして神の道を着実に歩みつづければならないときに、我が道を行きたがる。

人間の本性にとってどれほど辛かろうと、神の道を行かねばならないのに。

救われたばかりの頃なら、私はこう言うこともあったかもしれない。
「孤児院建設基金のために取りおいてあるお金の一部を使っても、なんの害があるだろうか。
神さまは、最後には孤児たちに対する私の働きを祝福してくださるだろう。
そのときに返済すればいいんだから」

こんなふうな理屈をこねるクリスチャンが多いことを、私は知っている。
しかし、はたしてそんなふうに、神をさしおいて自分勝手な道を行くことでうまくいくのだろうか。

多くの場合、私たちは心にやましさを覚える。
だがそうでない場合は、間違いなく信仰は弱まって、強くなることはない。

自分自身で救いを得ようと労するたびに、神に信頼してゆだねることはますます難しくなっていく。
そしてついには、自分の堕落した生来の理性に完全に道をゆずり、不信仰に支配される。

もし神ご自身の時を待って、ただ神おひとりに目を向けて助けと救いを求めるなら、その違いはどれほどだろう!
ついに助けが来るとき---- それは長い時期を祈りつづけたあとかもしれないし、信仰と忍耐力を大いに働かせたあとかもしれない。

それは、なんと快く甘美ななことか。
そして神を信頼し、その救いを忍耐強く待つことに対して、たましいはどんな現在の報酬を受け取るだろうか!

親愛なるクリスチャンの読者よ、もしあなたがこれまでこの従順という道を歩んだことがなかったら、今、歩んでほしい。
そうすればあなたは、すばらしい喜びを味わうことができるだろう!

ジョージ・ミュラー


われわれは忍耐強くあらねばならない。
神がすべてを行うお方だからだ。
忍耐強くないときは、まさに神と、神のなさるわざに対してあらさがしをしてしまうのである。

ジョージ・V・ウィグラム


神は偉大なる与え手であられる。
もし神が今日は与えずに御手を隠しても、明日はしばしば、その二倍のものを与えてくださるではないか。

ジョージ・V・ウィグラム


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