2019年6月22日(土)の手紙

2019年6月22日(土)


『神である主は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。』ヨナ書4章6節


あわれみがより有効なものとなるのは、それが時宜にかなって与えられるからであり、あわれみが必要なまさにその時だったからです。
あわれみはそのような時に与えられるのです。
もし、遅れて与えられたとすれば、それは時が満ちていなかったからです。

いずれにせよ、それは時宜を得たものではなかったからであり、都合の良いものではなかったからです。

適切な時とはいつなのか、いったいだれがわかるのでしょうか。
ひと目ですべてを見ることのできる神はいつ、何を与えるべきかをも十分に知っておられるのです。
そして、いつ取りあげるべきかも完全に知っておられます。

毎日の信仰生活の中で起こるそれぞれの出来事の時も、すべて神によって定められています。
なぜここが白で、向こうが黒なのですか、と間う必要はありません。

なぜ太陽の光がこんなに輝くのですか。
なぜ嵐がこんなに激しく唸るのですか。
なぜここに結婚が、向こうには葬儀が。
なぜ時に竪琴が、そして別の時にトランペットが鳴り響くのですか。

神がすべてを知っておられます。
私たちがそれらすべてを神の御手にゆだねることができるのは素晴らしい祝福なのです。

夜は植物の芽が出るままにしておきましょう。
そうすればそれが就寝の挨拶となります。
朝には植物がしおれるままにしておきましょう。
そうすればそれが朝の挨拶となるのです。

もし時が神の御手の内にあるのであれば、すべてが良いのです。
受ける値打ちがないのに慰めが与えられ、不安の中で呻いている中でも慰めが与えられ、最も必要な時に慰めが与えられれば、与えられているすべての慰めの中に、神の導きをしっかりと認めようではありませんか。

God Bless You!!


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