2019年6月15日(土)の手紙

2019年6月15日(土)


『彼らを懲らしめることがわたしの願いだ。二つの不義のために彼らが捕らえられるとき、諸国の民が集められて彼らに敵対する。』ホセア書10章10節


私同様、多くの人も深い落胆が何を意味するかについてよくわかっているはずです。
しかし、それでも自分の運命を愚か者の浮かれ騒ぎや、あるいは、王たちの空しい華やかさと交換したいと願う人はいないでしょう。

だれもそんなことを試みることはありません。
たとえ、人生の途中の道が厳しくても、私たちは賛美を歌いながら天に向かって進んで行く巡礼者です。

たとえ、苦痛と悲しみのさなかに置かれても、芳しい聖霊の息が吹きかけられると、私たちの喜びの生気は強められ、私たちの熱心はただちに高められます。
そして、隠れた幸いは、罪びとの大きな喜びよりも優れた遺産となるのです。

かつて苦しいときを過ごし、かろうじて耐えることができたとき、私はある並外れた健康と繁栄を楽しんでいる人に出会いました。
しかし、彼の心は粗野で、そのことばはやすりのようにがさつで、自分がだれよりも優れていることの証明として、合理的な考えを口にすることを好みました。

そして、彼は皮肉を込めて、「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから」と聖書のことばを引用したのです。

さらに、「あなたはそのように示されている神の愛の中で生きています。
しかし、私にはそんな愛などなくてよいのです。
あなたの信じている神とともにいるよりも、そんな神などいないほうが、私は優れたことができるからです」と付け加えたのです。

そう言われるまでは、私はかろうじて懲らしめが厳しいものであったことを認めることのできる余裕がありました。
しかし、ついに堪忍袋の緒が切れ、まるで火傷を負わせるかのような熱い涙がまぶたをこじ開け、あふれ出てきたのです。

私は自分の心の痛みを我慢することができました。
しかし、自分の神が中傷されることに耐えられませんでした。

私は憤慨に燃え、そして、叫びました。
「たとえ、私の足にある小さな痛みの代わりに、手足のあらゆるところに数えきれないほどの苦痛を伴うことがあるとしても、あなたと立場を交換するつもりはありません。
私は神の愛から生じるすべてを受け入れることに満足しています。
神の厳しい命令と懲らしめは、この世から与えられる喜び以上にはるかに勝っているのです」と。

私はそのことを確信しています。
たとえ深い失望」の中にあっても、神を信じない者たちがはかない浮かれ騒ぎの中でもっている喜び以上の素晴らしい内なる喜びが私の魂に与えられています。

一つ一つの痛みが、神をほめたたえる勢へと私たちを導いてくれる教師となります。
さらに、その痛みがわれわれ人間のさまざまな問題の解決に対して、どのよう
な役割を果たすのかについて、つまびらかに教えてくれるのです。

そして、ついには、完全な健康状態にあっても、決して生み出すことのできなかった完全な心の平安が達成されるのです。

God Bless You!!


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