2019年2月23日(土)の手紙

2019年2月23日(土)


『もし、彼らが鎖で縛られ、苦しみの縄に捕らえられたら、』ヨブ記36章8節


困難の中にあるとき、そこから直接何らかの益が与えられると期待してはなりません。

私がひどく苦しんでいたとき、以前より神に対して従順になり、祈りにおいて熱心になり、神との交わりを求めることにおいても熱心になったかどうかを確かめたいと思いました。
しかし、自分が前進したとは少しも思えなかった、と告白せざるを得 せん。

というのは、苦難は私の考えを混乱させ、まとまりのないものにしてしまったからです。

熱心な信徒を襲う厳しい苦難は、彼らの魂の根を大地に根づかせようとしている力を緩め、心の錨を天に結びつける効果をもっています。

これほど荒涼となってしまったこの世界を私たちはどのように愛したらよいのでしょうか。
なぜ苦い味の葡萄を求めなければならないのでしょうか。
慕わしい世界に飛んで行くために、また永遠の安らぎを得るために、鳩の翼を求めてはいけないのでしょうか。

苦難はこの地上の事柄に関して私たちの活動力を削ぎ、かえって主なる神との結びつきを強めます。
しかし、この同じ苦難が天上の事柄に関して私たちの翼に成長を与え、それによって鷲のように飛ぶことのできる羽に変えられるのです。

茨は身近な住まいの中にあり、それには高邁な霊をとらえる力が備わっています。
私たちは太陽に向かって自分の翼を広げるようになるのです。

苦難はしばしば私たちに真理を示し、その真理へと向かわせます。
そして、人生のさまざまな経験が閉ざされた真理の扉を開いてくれるのです。

聖書の御言葉は注解書だけでは決して明らかにされることはありません。
というのは、これらは経験によって裏付けられなければならないからです。
御言葉の多くはそれらを見えるようにするために、逆境という火であぶり出されなければ読むことのできない秘密のインクで書かれています。

苦難は私たちの心を耕し、その扉を開いてくれます。
その結果、耕された地には容易に雨が沁み込むように、神の真理が私たちの魂の最も奥深いところにも浸透するのです。

私たちが受ける苦難は、それが聖霊によって聖とされるとき、主の誠実さを体験することによって、むしろ神に対して大いなる栄光を帰することになります。

God Bless You!!


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