2018年9月27日(木)の手紙

2018年9月27日(木)


『しかし、我に返ったとき彼は…。』ルカによる福音書15章17節


主イエスの語られた「放蕩息子」は、決してお手本になるような人物ではありません。
その逆です。
このような、衝動の赴くままに生き、人目を引こうとする不安定な若者は、まわりの人間にとって、まさしく悩みの種です。

ところが…、この軽薄な若者の生涯にも決定的な瞬間が訪れて、彼はたちまちに、これまで自分の心を傾けてきたあれやこれやと、手を切ることになるのです。
この瞬間を、きょうのみことばは「我に返ったとき彼は」と記しています。

いつたい何が起こったのでしょうか。
失われた息子は、自分の心の中へと発見の旅をしたのです。
そして、そこで見たものが、彼を非常に驚かせました。

彼は、父の家を離れた悲惨だけではなく、自分の罪をも直視するのです。
無内容な人生は哀れでした。
父親への卑劣な振舞いにも気がつきました。
自分のことにだけ時間を費やしたこと、自分の楽しみ、自分の権利、自分の安楽だけを勘定に入れて歩んできたことに気づくの
です。

また、彼は自分の心が荒野のように、信仰も、愛も、希望も、恵みもなく、さびれ果てているのを見ました。

このような発見の旅が、すべての人々の心にとって大切です。
私たちは、自分でこの旅に踏み出さないかぎり、惨めな自己欺瞞の生涯をたどらなければなりません。

確かにこの発見の旅は困難な道です。
なんとつらい道でもあることでしょうか。
が、それは、神と救いと救い主とに出会うただひとつの道です。

主イエスは悔い改める罪人だけをお取り扱いになるからです。
彼らを救うため、彼らのために、主は死んでくださったのです。

主よ。
私の心のさまをお見せください。アーメン

God Bless You!!


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