2018年9月17日(月)の手紙

2018年9月17日(月)


『断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。』マタイの福音書6章16節


主イエスのみことばが誤解されないように。

主がここで命じておられるキリスト者の生活とは、はばかることのない、世俗との「同調」ではありません。
また、救いに腐心するあまりに世の楽しみの船に乗り合わせようとしない「心の狭い」タイプを、見さげることでもありません。

断じてそうではありません。

私たちの主は、そのような、何をもはばからないキリスト者を、擁護なさいません。
イエスの弟子であろうとして、世間受けのするあれこれを断念する人々をこそ、主はキリスト者と呼んでくださいます。

主はそれを「断食」と言われます。
主が明白にそのような「断食」を語っておられることに、はばかりなきキリスト者は心すべきです。

だからこそ…、それを理解する人たちに対して、主は改めて語られます。
永遠の救いについて真剣であることは正しいことだ。
が、その際、人は悲しげな偽善者であってはならない、と。

気難しいキリスト者。
それ自体がことばの矛盾です。

もしも私たちがイエスの弟子であるならば、歌にあるとおり、「悲しみの霊たちよ、下がれ。
喜びの主なるイエスがお入りだ」。
それでもなお私たちが気難し屋であるとすれば、それはまだ、イエス・キリストに現れた恵みを充分に知らないからです。

私たちがイエスの弟子であるならば、確かに、この世が何とも思わない誘惑とも戦わなければなりませ
ん。
そしてこの古い性質の日々の磔殺は、弟子たちにとっては重要となります。
それがいかに難しくとも、私たちはただ主との間でこの取り引きをするのです。

この世が私たちを見て、「イエスはその民を何と幸せにすることか」と驚くようになるべきです。
主はそれをこそ私たちに求めておられます。

主よ。
私たちを整えてください。アーメン

God Bless You!!


a:138 t:1 y:0