2018年8月27日(月)
『自分の家を離れてさまよう人は、自分の巣を離れてさまよう鳥のようだ。』箴言27章8節
「自分の家を離れてさまよう人」。
このみことばを読むとき、私は幼い日に見た絵入り聖書の一枚の絵、アダムとエバの楽園追放を思い起こします。
彼らの前には、雑草と石ころの不毛の地が広がっていました。
子どもの私はそれを見て思いました。
「神さまはどこにいるのかな」。
そうです。
彼らはもう神を見ることができなかったのです。
そこに立っているのは、神の懐にあった自分の家を捨てた人たちでした。
後になってようやく理解するのですが、アダムとエバは、ずっと以前にすでに家を捨てていたのです。
彼らが神への従順を拒み、罪人となった時にです。
彼らはふるさとを失いました。
自分たちの家を建てることはできたでしょう。
が、心はふるさとを失い、さまようのでした。
これはすべてのアダムの子孫(エッセン、シンガポール、ニューヨーク、どこに住もうとも))の姿でもあります。
私たちの心は、人間に巣を壊されて、帰る家を失った鳥のようです。
人々へ、さまざまな虚像へ、世界観へと飛び移りながら、どこにも安住しないのです。
きょうのみことばには一風変わった響きがあります。
そもそも小鳥は自らことさらに巣を離れはしないでしょう。
が、人間は進んで神を捨てるのです。
私たちの内なるふるさとの喪失、それは不運ではなく、私たちの罪によるものです。
このことを悟る人はまた、詩篇84篇のすばらしいみことばを熱心に聞きます。
「雀(小鳥)さえも、住みかを見つけました。
あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ」。
さて、私たちにはただひとつの祭壇があるのみです。
世の罪を負う神の小羊が死なれたゴルゴタの十字架。
ここに私たちの心のふるさとはあります。
主よ。
私たちに差し伸べられたあなたの御腕に、帰らせてください。アーメン
God Bless You!!
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