2018年8月26日(日)
『もしあなたを憎む者が渇いているなら、パンを食べさせ、渇いているなら水を飲ませよ。』箴言25章21節
これが旧約聖書のことばだとすると、「敵を愛せよ」は、もうここに現れているのでしょうか。
そのとおりです。
それは最初から、堕落した世に対する神のみこころです。
それならば「目には目で。歯には歯で」は旧約聖書になかったのですか。
それも確かにありました。
すべての国民に適用されるべき公正さとして、それは記されたのです。
公正が曲げられるなら、それはゆゆしい問題です。
預言者ハバククとともに「暴力が公正を押しのける。
それゆえ律法は眠り、さばきはいつまでも行われない」と嘆かなければなりません。
私たちの神は、人の世に公正が行われるよう、見張っておられます。
預言者イザヤが言うとおり、「シオンは公正によって贖われ」なければなりません。
それゆえにまた、神は私たちの罪をただ消し去るのではなく、それを私たちの保証人である主イエスにおいて処罰されたのです。
公正はあくまでも公正に。
ほかでもない聖書では。
しかし、そして、きょうのみことばによれば、私たちは人生の裁判官を演じるべきではありません。
私たちは愛することができるのです。
友人ばかりか、敵をも、です。
イエスがその敵のためにも死なれたので、私たちはわけ隔てなく人を愛することができるのです。
イエスが死なれたので、私たちはもはや滅びの苦しみに定められず、憎しみや復讐に捕らわれることもなく、すべての敵対心を捨てることができるのです。
これは、イエスの死がもたらした圧倒的な自由にふさわしいことです。
サタンは私たちを、憎しみ、復讐、敵意で縛ります。
が、イエスはすべての敵意を十字架のもとに下ろせと教えてくださいます。
ここに愛への道が開かれているのです。
主よ。
私たちの古い悪しき性質を赦し、私たちをあなたに似る者としてください。アーメン
God Bless You!!
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