2018年8月25日(土)の手紙

2018年8月25日(土)


『心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。』箴言25章20節


心配する人の心を「晴れやかにして」あげられたなら。
そう考えて手軽な治療法に頼るのは、私たちがいかに悲しむ隣人のために骨折ることの少ない者であるかを表すものです。

そのような場合になすべきことを、パウロはもっとよく知っていました。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」。

「泣く者といっしょに泣く」。
ほかでもない彼らの悲しみをあたかも自分のことのように、心で受け止めることです。

人間が他の人の悲しみにぶつかるとどうするか。
それは、私たちの経験済みのことです。
悲しみの表情をし、両手を揉んで遺憾の意を表し、切れ切れに「おくやみ」を申し述べながらも、心は伴わないのです。

人の痛みを、自分のことのように受け止める。
いったいだれにそれができるでしょうか。
またしても私たちの貧しい心があらわになるだけです。

私たちは、泣く人とともに泣くことなどできません。
けれども、この世でただひとり、実際にそうなさった方がいます。
主イエスです。

「彼は私たちの痛みをになう」と、預言者イザヤが予告したとおりに。

イエスが私たちの生活を占領してくださるなら、この私たちが、悲しむ人々の真の慰め手になるということが起こります。
真に聖別されたイエスのしもべたちは、もはや「裸の人に吹きつける冷たい風、酢にそそぐソーダ」のような振舞いはしないこと。
それを、私は幾たびも経験しました。

イエスから罪の赦しの大きな慰めを受けた人は、正しく慰める方法をも学び取るのです。

主イエスよ。
世の悲しみのただ中で、私たちをあなたの器としてお用いください。アーメン

God Bless You!!


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