2018年7月4日(水)の手紙

2018年7月4日(水)


『彼(大祭司)が贖いをするために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。』レビ記16章17節


この箇所は旧約の神の民にとって大切な「贖罪の日」の規定を記しています。
一年に一度、イスラエルのすべての民に、見逃しようのない明白さで、次のことが知らされました。

「あなたは生まれながらに神との正しい関係を失っている。
もろもろの罪が、神とあなたとを隔てている。
それゆえ聖なる神に対して償いがなされるまでは、あなたは心の平安を持つことができない」。

今日の私たちは、なんとあっさりと神を骨抜きにしてしまうことでしょうか。
私たちが当時の人々よりも進歩したからではありません。
聖書の言うとおりに、聖なる神への恐れがあらゆる知恵の前提であるならば、恐れを知らない私たち現代人は、愚かと言うほかありません。

神との間に、贖罪は果たされなければなりません。
それが旧約の贖罪の日のクライマックスでした。

民が静まり返る中、大祭司が動物の血を携えて至聖所に入りました。
聖書は特に、「その時、大祭司以外はだれも会見の天幕の中にいてはならない」ことを強調します。
大祭司は神の前にただひとりで立たなければならないのです。

いったいなぜ旧約聖書のこの箇所で、これほどに鮮明に大祭司の孤立を強調するのでしょうか。
それは、神の御子、私たちの大祭司を暗示しているからです。
キリスト・イエスが十字架上に死なれたとき、主はただひとり、果てしない孤独の中で、ご自分の血を私たちのために神の前に携えて行かれたのです。
ただひとりで。

もはや私たちが主の贖罪のみわざに付け加えるものは何ひとつありません。
主がひとりで私たちのためにしてくださったことを、ただ信仰によって受け入れさえすればよいのです。

主よ。
あなたにあって、神との平和を真に持ち得ることを感謝いたします。アーメン

God Bless You!!


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