2018年7月2日(月)の手紙

2018年7月2日(月)


『祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。』レビ記6章12節


日ごと夜ごと、エルサレムでは犠牲の煙が立ち上りました。
夕べには小羊がほふられて祭壇の上に置かれました。
朝には祭司たちが火をかき起こして、別の小羊をいけにえとしました。

エルサレムの市民は、昼間は犠牲の煙を見、夜には祭壇に燃える火を見ました。

エルサレムは犠牲の小羊の効力のもとに生きていたのです。
民と聖なる神との間には、絶えずなだめの供え物が置かれました。

これはキリスト者の群れの美しい予型です。

私たち汚れた罪人が聖なる神にお会いできないことを、キリスト者たちはよく知っています。
神と私たちとの間には、なだめの供え物が必要です。
あるいは、神と私たちとを結ぶものが必要である、と言った方がよいでしょう。

そしてキリスト者たちは、エルサレムの祭壇が、神ご自身の手によってゴルゴタの祭壇、すなわち十字架に置き換えられたことを知りました。

この祭壇にはイエスがささげられたのです。
イエスは世の罪を取り除く神の小羊です。

エルサレムが犠牲の煙と祭壇の火を絶やさなかったように、キリスト者の群れは十字架の陰に生き続けます。

パウル・ゲルハルトは、十字架のいさおしのもとにある人生を美しく歌いました。

「どんなときにもこれを使おう。
そうすべきだし、そうしたい。
戦いの日、これはわが避け所。
悲しみの日、これはわが笑み。
喜びの時、これはわが竪琴。
糧なき日、これがわがマナ。
渇く時、わが泉。
孤独の時、わが語らいの友…」。

主よ。
あなたの十字架の陰をほかにして、私たちはどこに住まいましょう。アーメン

God Bless You!!


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