2018年6月2日(土)の手紙

2018年6月2日(土)


『…それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。』ローマ人への手紙15章16節


使徒パウロは自分の任務をわきまえていました。

大いなる神に自分たちを差し出す教会が、異邦人の世界からも誕生し、しかも神に受け入れられる供え物でなければならない。

また、神に受け入れられるために、教会の各部分は聖霊によって新しくされ聖なるものとされなければならない。
こう彼は理解したのです。

これは、人々が今日「キリスト教」と呼ぶものとは、およそ趣を異にしています。
「聖霊によって聖なるものとされる」。
それは今日のキリスト者には聞きなれない響きを持つでしょう。
まさにそこが問題です。

ある人が言いました。
「私もキリスト者です。
ゲーテが『常に努力してたゆまざる者のみ』というのと同意見です」。

しかし、その努力からはたいしたものは生まれません。
私たちの性質は邪悪だからです。
しかもそのような努力はキリスト教とは何の関係もないものです。

それゆえ、真実なキリスト者ならだれでも「私たちはイエスの血によって、罪の赦しを得、聖なる者とされている」と言います。
まさしくそのとおりです。

では、なぜ「聖霊によって」と言われるのでしょうか。

荒れた庭の真ん中に一軒の廃屋が立っています。
ひとりの金持ちがこれを買い取って、玄関に表札をかけました。
これで家は本当に彼のものとなりました。

もしも喜べるものならば、家は再び主人を得たことを喜ぶでしょう。
が、同時にまた家は、「主人が埃を拭きとって、どの部屋をもきれいに新しくしてくれたら 」と考えます。

イエスがその血によって私を神のものとして買い取ってくださった、と信じるのは良いことです。

が、それで充分ではありません。
続いて聖霊が更新のわざを始められます。
古い罪は取り除かれなければなりません。
その後、神の光がすべての部屋を照らし、すべてを新しくするのです。

主よ。
あなたに受け入れられる供え物として、私たちの生涯を聖なるものにしてください。アーメン

God Bless You!!


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