2018年5月8日(火)の手紙

2018年5月8日(火)


『神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。』使徒行伝2章32節


キリスト教信仰について人々と話すと、必ず牧師や信徒への不満が出てきます。
「教会に頻繁に出入りする人たちが、一番よくない連中だ」という具合です。

そんな時に商人ヨハン・ディートリヒのような人を思い起こしてもらえたならば、と思います。

彼は19世紀のヴッパータールの人で、神の国のために大きな働きをしました。
仕事はキビキビとなかなかのやり手でした。

ところが話が他人の欠点に及ぶと、彼は急に黙り込むのです。
どうして何も言わないのかと尋ねられると、「私もまあ、倒産した商人みたいなものです。
そんな者が取り引きをさせていただいているのに、倒産を話題にして、いつたい何が言えますか。
人の欠点ならば私にもみな揃っています。
それを思うと、あれこれ言う元気もありませんよ」。

キリスト者の罪を見聞きするのは全く憂うつなことです。
が、聖書がイエスの弟子たちの失敗までもを、驚くほど率直に書き留めているのは、注目に値することです。
イエスの受難の際の彼らの行動は、破廉恥というほかありませんでした。

大群衆を前にしてイエスの復活をほめたたえたとき、ペテロはおそらくそれを思い出したことでしょう。
それで彼は断言したのです。
教会は使徒、説教者、監督、あかし人たちの偉大さによってではなく、神の御子イエス・キリストの偉大さによって立ちゆくのだ。

教会は、キリスト者たちの不面目によって行き詰まりはしない。
教会には栄光に輝く主がおられる。
そして主が生きておられるので、イエス・キリストの共同体も生きるのだ、と。

主よ。
私たちは人を見ず、人を当てにせず、あなたを拠り所といたします。アーメン

God Bless You!!


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