2018年5月26日(土)
『人々はこれを聞いて心を刺されて…。』使徒行伝2章37節
私たちの良心には巧妙な覆いがかかっています。
その私たちを聖書は「罪人」と呼ぶのです。
が、覆いのかかった良心にはそれがわかりません。
そこで聖書はなお詳しく説明して、「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来る」のだと語ります。
覆いのかかった良心は、それでもなお、「それは自分のことではない」と言い放つのです。
もしも私たちの良心が揺すぶられ始めたならば、それはたいしたことです。
そしてその結果はエルサレムの人たちに見られるとおりのものとなります。
主イエスが縛られてローマ総督ピラトの前に立たれたときに、群衆はこぞって「十字架につけよ」と叫びました。
いったいだれが、群衆の圧力を退けられるでしょうか。
それはまさしく罪の力であったのです。
では、イエスを十字架につけて、民の長老たちが嘲笑したとき、群衆はどうしたでしょうか。
「そばに立ってながめていた」のです。
彼らは、今はただ傍観するだけです。
群衆が中立を保ったのは、事態が自分たちに不都合な方向へと展開したからです。
イエスが頭を垂れて息を引き取られると…、聖書は記します…、彼らは「胸をたたいて悲しみながら帰」って行きました。
「胸をたたく」とは、なんと興味深いことばでしょうか。
それは、「お前の罪だ」という良心の声へのかすかな同意です。
しかし人々は、早く忘れようとして、急いで帰って行きました。
そして、やがてペンテコステの日。
ペテロはイエスの十字架を鮮明に語り、「このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と鋭く迫りました。
すると突然、彼らは「私たちは罪を犯したのだ」と悟ります。
それは同時に、イエスの十字架が神の源であることを、彼らが悟る時でもありました。
主よ。
私たちを中途半端な罪の自覚にとどまらせないでください。アーメン
God Bless You!!
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