2018年4月28日(日)の手紙

2018年4月29日(日)


『そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。』ヨハネによる福音書21章7節


水浴びをするときには、着物を脱ぎます。
ペテロは逆のことをしました。
弟子たちの舟が岸に近づくと、そこにいる見知らぬ人は復活した主イエスだとわかりました。

ペテロは待ちきれずに、水に飛び込み、泳ぎました。
「主だ」。
その一言が電光のようにひらめいたからです。

それからの、なんという素早さ。
彼はたちまち上着を身につけます。
頭が混乱したのですか。
主にお会いするのにふさわしく、礼儀をわきまえてですか。

さだかではありません。
が、はっきりしているのは、ペテロが猛烈な力で主に引き寄せられたということです。

それにしても、人の心はなんと不思議なものでしょうか。
ほんのしばらく前には、彼は主と主に関わるいっさいを捨てたのです。
キリスト信仰全体に見切りをつけた男ではありませんか。

そこへ生ける主が現れると、ペテロはたちまち主に向かって泳ぎ始め、全身で主を呼び求めます。

私たちの心もそうです。
イエスの前を逃げ出しつつも、また慕い求めるのです。

アンゲルス・シレジウスの詩の一節に、こうあります。
「あなたを捜したが、見いだせなかった。
私はあなたに背を向けた。そして、造りものの光を愛した」。

まさにそうです。
私たちの心は不思議なものです。
「あなたを捜した… あなたに背を向けた…」。

主から逃れることと、主を慕うこと、その二つが同時に起こるのです。

その詩はこのように終わります。
「しかし、あなたがもうすべてをしてくださった。
私が真にあなたを知るためのすべてを」。

ペテロの結末もそうでした。
あなたにも、そうなりますように。

主よ。
私たちがあなたに心を定めるまでは、平安を与えないでください。アーメン

God Bless You!!


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